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 捨てる直前に見た端末には、赤い点はすでに二つしか表示されていなかった。
 残るはあと一体だ。
 奏は必ず近くにいる。
 広がる枝葉が進行の邪魔をする。簡易飛行樹はもう使い物にならなかった。鍛えた軍人の瞬発力を生かし、己の脚で地を蹴り進む。上がりそうになる息を殺し、死に物狂いで先を目指した。
 この先に奏がいる。それだけを頼りに、白に侵された山の中を駆け抜ける。
 走って、走って、そうして目の前が拓けたそのとき、ナガトの鼓膜を悲痛な叫びが突き刺した。

「ナガトーーーーーー!!」
「――奏っ!?」

 呼ばれている。
 木々の拓けたその場所に、退路を断たれた奏が見えた。感染者は彼女のすぐ眼前に迫り、今にも襲いかかろうと奇声を放っている。
 ――間に合わない。
 瞬時にそんな考えが頭をよぎったが、それでもナガトは薬銃を構えた。この距離から撃つのでは、届くかどうかも怪しい。きっと間に合わないと、冷静な自分が過去の経験から囁いてくる。うるさい、黙れ。そんな心の声が、一瞬で駆け抜けた。

「届けっ、――クソっ! 届けよ! 奏ぇっ!!」

 希望はあるはずだ。あの子を失うわけにはいかない。傷つけるわけにはいかない。
 ヒーローになんてなれなくていい。王子様の座など喜んで譲ってやろう。
 けれど、あの子は。
 あの子だけは、渡すわけにはいかない。
 そんな決意を打ち破るように、耳をつんざくような破裂音が乾いた空気を割った。
 ――衝撃の大きなその発砲音は、ナガトの構える薬銃から放たれたものではなかったけれど。

「え……」

 ひらり、と。
 青い空から、白い翼が舞い降りる。
 ちょうどナガトと奏の中間に降りてきたそれは、瞬時に姿を変えて人の姿となった。――違う。塗装のされていない簡易飛行樹が畳まれただけだ。
 呆然と見つめた先のその人は、大型のネコ科動物を思わせるしなやかな動作で、振り向きざまに長く重たい薬銃を軽々と肩に担いだ。
 唇がにんまりと弧を描く。随分と形のいい唇だ。拓けた大地に降り注ぐ冬の陽光に照らされて、ゴーグルがきらりと輝いた。

「――おっせーぞ、“王子サマ”」

 ――ああ、そんな。
 無造作に剥ぎ取られた無骨なゴーグルの下から、空が覗いた。それもただの空の色ではない。雲の上に広がる、深く澄んだ空の色だ。翼がなければ見られない、遥か上空の深い青。パイロットには馴染みの色だ。
 あの色の持ち主を、ナガトはよく知っている。
 まるで碧落の欠片のような、あの瞳を。
 人を食ったような意地悪な笑みも、自信に満ち溢れたその声も。
 けれど自分を流し見るその人は、ここにはいないはずの人だった。

「ソウヤ一尉……?」
「よっ、久しぶりだな。元気してたか?」

 茫々とした思考では、投げかけられた言葉の意味すら正確に理解できない。
 なんでこの人がここにいるんだ。そんな疑問すら投げかけられず、ただただ間抜け面を晒して彼を見つめることしかできなかった。
 立ち尽くすナガトと同様に呆然した様子で座り込んでいる奏が、ソウヤを見上げて口を開けていた。

「大丈夫か、姉ちゃん。怪我は?」
「え……」

 手を差し伸べられた奏は、目を瞠ったままぴくりとも動かない。どうやらこの事態を呑み込めていないようだった。
 一足先に頭を切り替えたナガトが、駆け寄ろうとしてまたしても足を止める。気配を感じるなり構えた薬銃が口を挟むまでもなく、事態は収束した。
 身体に響く発砲音は、対高レベル感染者用の薬銃のものだ。反動は最小限に抑えられているとはいえ、片手で扱うのは困難を極める。少なくとも、今のナガトでは片手で狙いを定めるのは不可能な代物だ。
 だが、奏の腕を掴んで立たせて己の背に庇った上で、ソウヤは空いた方の手で伏していた感染者に弾丸を撃ち込んだ。立て続けに三発。そこに過度な緊迫感などなく、うっすらと笑みを浮かべる余裕すらあるようだった。

「レベルDだ、完全駆除しねぇと話にならねぇよ。これくらいお前でもできんだろ、やっとけ」
「すみませ……、って、じゃなくて!」

 核を破壊され、完全に息絶えた感染者から血溜まりが広がっていく。奏を背に庇ったのはこのためか。そのことに気がついた途端、圧倒的なまでの実力の差に埋まりたくなった。この状況で、この人はそこまで気が回せるのか。自分は現状を把握するのがやっとだというのに。


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