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* * *



 荒い呼吸が冷静な思考を妨げる。
 どうにかして落ち着こうと何度も繰り返す深呼吸が、肩の痛みをより鮮明に自覚させた。引きずるほど長かったくたくたの白衣は、今やすっかり短くなっている。ぐっと伸びた身長は確かに自分のものであるはずなのに、目線の高さに慣れず違和感があった。
 目元を覆う長い前髪も、長身を隠そうと丸めた背も、どれも突き刺さる視線から逃れるために身につけたものだった。隠しても逃げても、視線はどこまでも“ハインケル”を追いかける。
 存在は消せない。どれほど身を縮めても、“ハインケル”はどこにも行けやしなかった。
 だからこうして、こんな形で戻ってくる。

「……君の望みはなに」

 同じ色の金髪が風に煽られて揺れる。
 けれど彼女の勝気な瞳は、ハインケルとは似ても似つかなかった。ドルニエは父親似だ。吊り上った目がそっくりだと、この状況でそんなことを思った。
 徐々に鮮明によみがえってくる記憶に、指先まで震えた。恐怖を超えたなにかが歯の根を震わせ、心臓をよりせわしなく拍動させる。呆然とこちらを見つめるミーティアの視線を感じながら、ハインケルは一つかぶりを振った。
 目覚めるべきではなかった。
 この身体の中には、おぞましいものが眠っている。起こしてはならない。眠らせておかねばならない。あのときの判断に後悔はない。誰かが試さなければならなかった。自ら道を選んだのだから悔いることはなに一つないけれど、それでも恐怖は消えない。
 防護シートに守られた隔離施設の中に留まっているべきだったのに、どうして自分は今こんなところにいるのだろう。
 ――頼むから、目覚めるな。

「なにって、バッカじゃないの? あんたのデータに決まってんじゃない! それさえあればなぁんにもいらないの。分かる? あんたの命も、そこのオバサンの命も、なぁんにも」
「このデータは渡せない。……渡さない」
「あーもう、同じこと何回も言わせないでよ、うっとーしい! あんたの意見なんてどうだっていいの。聞いてないの! ちょっと、早くやっちゃって」

 ドルニエが男達に命じ、手の空いていた一人の男がハインケルへと腕を伸ばした。たとえ身体が大きくなろうと、ハインケルの運動神経では彼らから逃げられないことは目に見えている。
 ぎゅっと固く瞼を閉ざしたのと同時、硬い声が空気を割った。

「お逃げなさいっ、ハインケル博士!」
「ミーティアさ、」
「黙ってろ!!」
「ミーティアさんっ!」

 屈強な男に腹を蹴られ、ミーティアの身体が小さな呻きと共に前に傾ぐ。苦しそうに寄せられた眉根がぴくりと動くのが見えたが、彼女の怜悧な瞳が開くことはなかった。一度咳き込んで崩れ落ちた身体は、今やぐったりとしていて動かない。
 それでもドルニエは、男達は、愉快そうに三日月のような笑みを浮かべている。
 ――力で人を押さえつけて、それでも笑うのか。
 緑の上に伏したミーティアを静かに見つめ、ハインケルはぎゅっと唇を噛み締めた。ビリジアンからやってきた彼女がどこまでハインケルのことを知っていたのか、そこまでは分からない。ただ純粋に、優秀な科学者を自国に引き込むことが目的だったのかもしれない。
 それでも、彼女は言った。英雄の国でハインケルを守る、と。そこにどんな思惑があったのだとしても、優しい声をかけてくれた彼女が、こんなことに巻き込まれるべきではない。あの国は、ミーティアを失うべきではない。

「――ドルニエ。彼女は関係ないでしょう。放してあげて」

 あれほど怯えていたのが嘘のような声が出た。
 どうしてあそこまで臆病だったのか、今となってはよく分かる。ずっと視線が怖かった。優秀な学者一族の一人として生まれ、天才児として注目され、期待される成果を残せなければ、途端に罵詈雑言が飛んでくる。称賛の裏には必ず嫉妬や嘲りの声が混じっていて、その気持ちの悪さに耐え切れずに、自分は研究室に隠れたのだ。
 半ば自暴自棄になっていた。体内に核を宿すと決めたあのときだってそうだ。死ぬのは怖いと言いながら、どこかでそうなってもいいかもしれないと思っていた。だから、思い切れたのだ。軍の研究施設内で発症すれば、必ず誰かがすぐに殺してくれるだろうから。
 記憶の一部を失って、体内に宿った未知の恐怖に本能が怯えた。昔と同じように、突き刺さる視線に怯えた。どこまでも逃げようとして――、そして結局、捕まった。


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