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どうやら少し疲れているらしい。立場を弁えていないのは自分も一緒かもしれない――先日会議室に乱入してきたマミヤの姿を思い出し、ムサシは小さく苦笑した。けれどこれはある種の治外法権だ。
ヤマトに対してこうまで接近できる人を、ムサシは他に知らない。それは別に、自分が好かれているからというような、浮かれた理由ではないことも十分理解している。
現場を退いてなお引き締まった身体を服の下に感じて嬉しくなった。ぎゅうっとより力を込めて抱き着いてみたが、それでもヤマトは身じろぎ一つしない。顔の左側に頬を摺り寄せ、火傷痕に触れても、彼はぴくりともしなかった。
「それにしても、伯父さんだというわりには似てませんでしたね、あの人」
こんな戯言に返事などあるわけがないと知っているので、ムサシは構わず続けた。
「おそらく近日中に大きな動きがあると思いますけど、会食っていつやるんでしょうねぇ。あの人達、こっちの予定は自由に動かせると思い込んでるので面倒くさいです」
「行くのか」
「招待されれば行きますよ。せめて数日前に教えていただければ、その前に岩盤浴にでも行くんですけどねぇ」
抱き着かれたまま資料に目を通すヤマトの表情は伺えない。無理やり覗き込んでもよかったが、立派な背もたれが邪魔をしてそれは叶わないだろうから、はなからやめておいた。無駄な労力は使いたくない。
ヤマトは「行くのか」と聞いただけで、それ以降はなにも言わなかった。彼の中にはどういう事態が待ち構えているのか、容易く想像がついているのだろう。気遣われているわけではないと知っていたが、ムサシはあえて都合よく解釈してきゅっと口角を上げた。
「だーいじょうぶですよ。ちょっと行ってぺろっと脱いだらおしまいです。それだけで緑花院の皆々様のご機嫌が取れるのなら、全裸でタンゴだって踊っちゃいますよ! ――この身体にはそれだけの価値がある。願ってもないことです」
そこに一切の悲観はない。
ムサシはポケットに入れていたものを取り出すと、資料に意識を向けるヤマトの目の前で軽く振ってみせた。
しゃらん。涼しげな音を奏でたそれは、多くの女性が目を輝かせたに違いない、美しい銀の簪だった。小さな鈴蘭の花が揺れている。
「どうせならこれを着けて行きましょうか。洋服よりも、着物の方が興奮してくれるかもしれませんね。ああいう古い人達って、いかにも好きそうじゃないですか?」
返事はない。こんな馬鹿げた話に応えがあるはずがないので、ムサシにとってはそれで十分だった。むしろなにか言われた方が驚いただろう。
静かに座すその人の落ち着きが、基地司令室の空気を整える。それはヴェルデ基地全体に広がり、テールベルト空軍すべてを飲み込むものだ。
ムサシは自信に満ちた声を、ヤマトの耳に唇が直接触れそうなほど近くから注ぎ込んだ。
「貴方に降りかかる露も火の粉も、すべて私が払いましょう。私は貴方の影となる。たとえ誰に恨まれようとも構いません」
孔雀が進むと決めた道に在するありとあらゆる障害を取り除き、不要なものは切り捨てる。テールベルト空軍が望む道を、光に照らされた道を、この人が煩うことなく進むために。
それがたとえ、正義とはかけ離れていようとも。
そもそも自分達は、「正義の味方」にはなりえないのだから。
* * *
ブゥウウン、という端末が放つ排気音だけが響く静寂の中、突然イブキが爆発した。
「うわぁあああああ! マジ、もうマジ羨ましす! なんすかなんすか、いいなぁ俺もマミヤ様に踏まれたい……!」
「るっせぇ! 急にどうした。それから、“も”ってなんだ、“も”って。人聞きの悪ぃコト言うんじゃねぇよ」
脂っぽい頭を触るのが嫌で手近にあったバインダーで殴りつければ、暗闇の中で端末を操作していたイブキが前のめりにモニターへ突っ込んだ。傾いたモニターの横で卓上カレンダーが倒れ、ドミノ式に物が倒れて床へと落ちていく。
大きな物音にぎろりと鋭く睨み下ろせば、彼は途端に怯えたようにイブキが身を縮こまらせた。それでもぼってりとだらしない身体が引き締まるわけがなく、これが軍属の人間かとソウヤは呆れきった眼差しを向けた。いくら事務畑の人間とはいえ、基礎訓練くらいはしているだろうに。
青白い光に照らされて、闇の中にイブキの団子鼻が浮かび上がる。