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「迷わず自分で試しちゃうあたり、怖いですよねぇ」
ハインケルが生み出した薬は、白色化植物による神経刺激物質の取り込み阻害薬――つまり、白の恐怖に怯える人々の希望となりうるものだ。核を抑え込み、たとえ寄生されても発症を食い止めることができる。マウスやラットの段階では成功と言えた。
ならば、人間は。
新薬として世に出すには、必ず被験者が必要になってくる。データがなければ使えない。だが、この薬の効果を確かめるためには、感染しなければならなかった。感染者を使えばいいと誰もが口を揃えて言ったが、ハインケルはそれでは駄目だと首を振った。
「あの子の生み出した薬は、これから生じる悲劇の種を芽吹かせないためのものだったんです」
すでに感染し、発症している患者では意味がない。これは感染者を治すための薬ではなく、言うなれば予防薬だ。
飲んだ上で、感染する。核を宿す。その状態になって初めて、本当に発症しないか、効果があるのかが確認できる。
誰も被験者になりたがらなかった。当然だろう。倫理的な観点から見ても、健常人を被験者にして感染のハイリスクを負わせることはできない。審査に出せば時間がかかるのは目に見えている。それどころか、試験の許可が下りない可能性の方が高い。
魔法のような薬が今目の前にあるのに、世に出すことができないかもしれない。
――だから、彼は“試した”のだ。
「あまりに危険だと、当然彼のチームは全員が反対しました。優秀な科学者を失うのは国にとっても大きな損害ですから。けれどハインケルくんはためらわなかった。不思議ですよね、あれほど臆病な子なのに。よほど自信があったんでしょうか」
「し、しかし……、まさか、そんな薬が本当に……? あれが生きているということは、成功したのか! その薬はどこにある、なぜ早くわしらに配らんのだ!」
「その薬が成功とは言えなかったからです」
にこりと笑ったムサシの鼻先で、大臣は思い切り眉根を寄せた。
「薬は確かに核の発芽を抑え込み、発症を防いだ。ですが、あの子の細胞は異常をきたした。まあ、もともと細胞の成長を抑制し、発芽を遅らせる作用のものだったそうですから、予想の範疇と言えばそうなんですが。ただ、すこーし副作用が強く出過ぎたみたいですね。彼の細胞は若返りすぎた」
「どういうことだ?」
「子どもに戻ったんですよ。彼は当時十六歳。西の地域出身ですから、今よりずっと見た目も大人びていました。それが薬の影響で、今のような姿になったんです。おかしいと思いませんでしたか? 彼はここ数年、ずっと十歳前後の子どものままなんですよ」
「ふん、学者風情の姿など見ておらんわ」
「確かに、表には出てきませんからね。そのように仕向けたのも事実です。もともと姿を知っている者も少なかったですし、ごく限られた人間に緘口令を敷けば事足りました。この計画を不用意に悟られないよう、ハインケルくんの周りから人を少しずつ遠ざけたんです」
理不尽に嫌われ、人が離れていってもハインケルは気にしなかった。彼の興味は人にはなかったのだ。
「しかし、副作用が若返りだけならなにも問題はないだろう。むしろ喜ぶ連中も山ほどいるんじゃないのか」
「確かに、それだけならそうかもしれません。ですが、問題はそれだけではなかった。彼の危惧していた通り、記憶にも障害が現れたんです」
ハインケルが唯一心配していたのは、己に生じる記憶障害だった。この薬を開発したことすら忘れたのではなんの意味もない。しかし幸か不幸か、彼は天才科学者だった。予想できるリスクを潰す手はすでに打っていた。それがどんなものなのか、ムサシにきちんと説明した上で。
小さくなった彼は、そのことすら綺麗さっぱり忘れてしまっていたけれど。
「先ほども申し上げたように、このことは極秘事項として緘口令を敷きました。彼自身にも真実を明かさないという約束をしたんですよ。記憶の欠落も彼の能力そのものには影響しない程度のものでしたから、そのまま研究所にいてもらってもなんの問題もありませんでしたし。……六年前のあの日から、経過観察が始まったんですよ」
「六年……」
ヤマトがカップを置き、携帯端末を確認した。なにか連絡が入ったのだろう。大臣はムサシをまじまじと見つめ、気味が悪いと言いたげに唇を歪めている。
これほど丁寧に説明してやっているのに、まだ理解しきれていないのだろうか。
ムサシは溜息を押し殺し、代わりに微笑を浮かべて言った。