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「やっだ、汚い顔。ま、でも、兄さんにはお似合いなんじゃない?」
「や、やめ、おねが、やめて……!」
「大人しくしといてね〜。暴れて手元狂ったら、ふっとい血管ぐっちゃぐっちゃにしちゃうかも〜」
「ひっ……!」
注射器の針が、嬲るように皮膚をなぞっていく。
「やめなさい! なにをするつもり!?」
「オバサンは黙っててって言ったでしょー? あんたも肩抜かれたい? いいから大人しく見てろっつってんのよ!」
苛立ちを隠さないまま吐き捨て、ドルニエは躊躇いなく針をハインケルの首筋に突き立てた。ちくりとした痛みと、薬液が注入されていく独特の圧迫感に怖気立つ。
「あ……、や、」
「はーい、じっとしてましょうね〜。――死にたくないんでしょ?」
ガクガクと震える全身は、細やかな抵抗一つさせてくれない。
空になった注射器をケースの中に無造作に放り込み、ドルニエは涙や涎、土でどろどろになったハインケルの頬に優しく触れてきた。穏やかな微笑みは、それだけ見れば天使のようだ。鮮やかな金髪が光をきらきらと反射させている。
この笑顔を、以前にも見たことがある。あれは確か、ハインケルが研究所に勤めることが決まった日の夜だった。明日から家を出ると告げたハインケルを見上げて、ドルニエは今と同じように笑っていた。
そして――。
「ねえ兄さん。あたしね、あんたのコト、大っ嫌い」
あの日と同じ台詞と共に、乱暴に頬を張られた。
もうどこが痛むのか分からない。嗚咽を零した次の瞬間、全身が痙攣し、呼吸が強制的に堰き止められるほどの大きな拍動に、ハインケルは瞠目した。
「はっ、あ、ぐぁっ!」
「ハインケル博士? どうなさったの、博士!」
熱い。熱くて、痛くて、苦しい。
どくどくと脈打つ心臓は不規則な速さで拍を刻み、焼けつくような熱が首から全身へと走っていく。血管の中をムカデが高速で這いずり回っているような感覚に、外れた肩を庇うこともせずにその場をのたうった。
頭が割れそうだ。内側からなにかに食い破られるような恐怖と苦痛に襲われ、獣じみた咆哮を上げて転げ回る。地面を掻く指先が土を抉る。爪の間に土が入り、閉塞感がじわじわと侵食してくる。眼球がひっくり返るようだ。
四肢が細切れに千切れそうで、骨が軋む音を直接聞いた。筋肉が無理やり断絶される。
どこもかしこも痛くて、苦しくて、ハインケルは死を覚悟した。ああ、死ぬんだなと、痛みに犯された頭でそんなことを思った。
悲鳴を上げすぎたせいか、喉からは血の味が広がった。ただでさえも舌を抉られ、口の中は鉄臭さでいっぱいなのに。
ああ、と吐き出す声が低くなる。
「ハインケル博士……?」
ミーティアの案ずる声が遠い。
肩の痛みが再び強くなっていった。どうやら、全身の痛みが引き始めたらしい。ずくずくと一定のリズムを刻む頭痛はまだ残っていたが、身体が細切れになりそうな激痛は次第になくなっていった。それでも身体中が軋み、倦怠感が残る。すべての痛みが引いたわけではなかった。
荒い息を吐きながら、ハインケルは涙を滲ませた瞳でドルニエを見上げた。
片膝をつき、なんとか上体を起こす。膝に乗せた腕は震えていたが、それでもかろうじて支えにはなっている。
視線の先。――ドルニエの笑みが、近くにあった。
「ハァーイ。お久しぶり、おにーさま。……あーら、もしかして背ぇ伸びた?」
なにを言っているのだろう。
眉間にしわを刻んだ途端、刺すような頭痛が再びハインケルを襲う。庇うように手で押さえた拍子に、強烈な違和感が込み上げてきた。記憶が霞む。なにかがおかしい。恐る恐る右手を下ろし、土で汚れたそれを見た。
「え? なん、で……」
限界まで瞠った瞳に映り込んだのは子どもの小さな手のひらではなく、誰が見ても大人の男のものだった。自分の意思通りに開閉する手は、まぎれもなくハインケルのものに違いない。
どういうことだろう。自分の手のはずなのに、目に映るのは見慣れた自分のものではない。
訳も分からずドルニエに泣きつきかけ、ものの数秒で記憶にかかっていた靄が晴れた。背後からスツーカのけたたましい鳴き声が聞こえたからだ。今までは言葉として聞こえていたそれは、もうただの鳴き声にしか聞こえない。
「ハインケル、博士……?」
「……ああ、そうか」
――そうだ、「だから」だ。
乾いた笑みが唇に浮かぶ。
上空を逃げていたところを撃たれたのか、男の手に捕らえられたスツーカの翼からは血が滴り落ちていた。