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眠る欠片を揺り起こせ *17
どうして、ここにいるの。
どうして、こうなってしまったの。
どうして、そのままでいるの?
――眠ったままじゃ、なにもできないのに。
腕を無理やり後ろに回され、肩の関節が悲鳴を上げる。日頃机に噛り付いてばかりいるせいで、ただでさえも身体は固いハインケルにとって、これは拷問に等しい行為だった。
苦痛に歪むハインケルの顔を見て、目の前の女性が楽しくてしょうがないといった風に表情を蕩かせた。よくできた人形のような作りのそれは、なにも知らなければ愛らしくも見えただろう。
舞台に立つ役者さながらにその場でくるりと回った彼女の髪から、甘い石鹸の香りが零れ落ちる。ふわふわと波打つ金髪は靡くたびに光の粉をばら撒くようだった。
どれほど愛らしく見えようが、彼女の瞳に宿る冷たい狂気を前にしては見惚れる気も起きない。
ハインケルとミーティアは、屈強な男達によってその場に拘束されていた。後頭部に突きつけられた銃口が心臓を竦み上がらせ、自然と呼吸が浅くなる。彼女が撃てと一言命じれば、男達は言葉通りに発砲するだろう。彼らのにやにやとした笑みが、そのことをなによりも雄弁に物語っている。
――昔からそうだった。
ぎゅっと唇を噛み締め、ハインケルは胸の辺りを強く握った。絞り出すような吐息は恐怖に震え、睫毛や頬を涙がしとどに濡らしたが、金髪の女性は表情一つ変えやしなかった。
彼女はずっとそうだった。
ハインケルが大好きだった蝶々の羽を目の前でちぎってみせたときも、彼女はこんな風に冷ややかに笑っていた。――怖い。恐怖ばかりがせり上がってきて、言葉の代わりに涙が零れていく。
「もーう。泣かないでよ、おにーさま。せっかく会えたってのに、つれない反応ねぇ」
「アナタ、ハインケル博士の妹さん? ということはつまり、ドルニエ女史かしら」
「ちょっとぉ。オバサンは黙っててくださいますぅ? あたしは今、この人と喋ってんの。うるさいと口塞ぐわよ」
「あら、年上は敬いなさっ、――つぅっ!」
「ミーティアさんっ!」
ミーティアの首が勢いよく後ろに仰け反る。
金髪の女性――他ならぬハインケルの妹、ドルニエだ――の笑みが命令であったかのように、ミーティアを拘束する男が艶やかな黒髪を乱暴に引っ張ったのだ。加減も知らない手つきによって与えられた痛みに、ミーティアの柳眉はどこか悩ましげに潜められる。
そんな表情に男達は下卑た笑みを浮かべていたが、ハインケルの胸を占めるのは恐怖と罪悪感だけだ。
この人を巻き込むつもりなんてなかった。涙ではなく謝罪の言葉を紡ぎたいのに、喉の奥が引き攣れて声が出ない。
「……素敵なお友達だこと」
髪を掴まれているにもかかわらず、ミーティアはうっすらと微笑んでそう言った。あからさまな挑発に、ドルニエもまた笑みを深くする。
それでは駄目だ。ハインケルは咄嗟にミーティアを庇おうと身を捩ったが、屈強な男の拘束はびくともしなかった。せめてドルニエの気を散らそうと口を開いたが、すでに手遅れだった。
ドルニエはミーティアの前に立ち、一見すればとても無邪気に笑って、その手を大きく振り上げたのだ。
「待って、ドルニエっ!」
――パシンッ!
静止など無意味だった。乾いた大きな音が鳴り、黒縁の眼鏡が弾け飛ぶように地面に落ちる。柔らかい土に受け止められたそれを、ドルニエの靴底が躊躇いなく踏みしめた。
首が一周するのではないかと懸念するほどの勢いに、ミーティアよりもハインケルが悲鳴を上げた。俯くミーティアはなにも言わない。
ドルニエの甲高い笑声が辺りを覆い、空気を震わせる。ハインケルの白衣の中で、スツーカまでもがびくりと震えた。
「み、ミーティア、さん……」
「まったく……。困ったお嬢ちゃんね」
「あーら、まだそんなこと言う余裕があるの? オバサンってば意外とタフなのね。もう一発いっとく?」
「お願いっ、やめて! ミーティアさんは、かっ、関係ないから!」