11 [ 114/225 ]
ようやっと大人しくなったのもつかの間、今度はハインケル自身が慌てるはめになった。研究室内に響くのは地獄の呼び声のような、感染者確認を告げるアラートだ。心臓を揺さぶる不穏な警告音は、日に日にその感覚を短くさせている。
アラートが鳴ると、すぐに人の声が感染者の場所と状況を伝えるべくスピーカーから流れてくる。ハインケルは、その瞬間が最も嫌いだった。
それは、人が人でなくなる瞬間だ。感染者を同じ人間と呼ぶには抵抗がある。たとえ寄生されておらず、完全に正常な状態に戻ったとしても、一度でも人間でなくなってしまえばそれは人とは思えない。だから、ハインケルにとってアラートは、人が消えていく音なのだ。
そしてそれは、自分をも脅かしかねない。だから、怖い。
「ねえ、スツーカ。……なんで僕は、ここに来たんだろうね」
テールベルトの研究室で白の植物の生態を調べていた頃、まさか他プレートに放り出されるとは思いもしなかった。感染者と分厚いガラス越しに対峙することはあっても、それ以上はないと思っていた。
緑に溢れた世界は美しいけれど、この世界はあまりにも恐ろしい。
「どうして、誰も来ないんだろうね」
ぴくりともしないスツーカをそうっと抱き締めて、ハインケルは震える声で息を吐いた。
自分は世界を知らなさすぎる。頭がいいと自負しているが、それは専門分野に限った話だ。他のことはなにも知らない。テールベルトという国がどう動こうとしているのか、さっぱり分からない。あの国は本当に自分を必要としているのだろうか。優秀な研究者としての地位を確立していることには間違いないが、ハインケルが軍部のお荷物として扱われていることもまた事実だ。その程度の自覚はある。
ならばなぜ、自分は外に出されたのだろう。彼らにとって、ハインケルを監視の目が届かないところに送る方が危険だったろうに。
研究室の備品にあったメモ用紙には、ビリジアンの国章が印字されていた。盾を抱くように蔦の絡んだ国章は、逆さから見れば赤子をあやす揺り籠のようにも見える。
「スツーカ、知ってる? 昔、ビリジアンには英雄がいたんだよ」
白の植物が世界を呑み込んでいく恐怖の中、人々に希望をもたらした緑の英雄が。
長いプラチナブロンドの前髪に隠されていた瞳が、その隙間からちらりと覗いた。テールベルトの人間には珍しい、深く澄んだ青い双眸だ。くるぅ。小さく小さく、スツーカが鳴く。
ミーティアが籍を置くビリジアンは英雄の国だ。女王が治め、白植物の研究も進んでいる。空軍といえばテールベルトだが、陸軍といえばビリジアンだ。あの国の緑地防衛隊の優秀さは三国一を誇る。
そんな国が、ハインケルを守ると約束した。力を貸せば全力で守ってくれるのだと。少なくともミーティアはそう言った。モスキートは彼女ほど甘い言葉を囁かなかった気がするが、それでもハインケルをビリジアンへと誘ってきた。だとすれば、あの国にはハインケルを擁する意思があるということだ。
テールベルトは怖い。なにも言わずに外の世界へと放り出してきたテールベルトという国が分からない。
「……大丈夫だよね、スツーカ。だって僕らには、英雄の国がついてる。死なないよね。……殺されたりなんか、しないよね」
自分を見失いそうになるとき、ハインケルは決まってスツーカを抱き締めていた。これまでも、おそらく、これからも。
得体の知れない不安と恐怖に戦いながら、前に進むしかないのだ。
――なにが怖いの?
「分からないよ。痛いのも、しんどいのも、怒られるのも、ぜんぶ怖い」
――じゃあ、どうして“そのまま”でいるの?
「分からない。……“分からない”のも怖いんだ」
白の植物がなんなのか。どうしてそんなものがこの世界に溢れているのか。分からないままでいることが、とても怖い。
進化研究を続けていくにつれて、分かることはたくさんある。一つ分かるたびに嬉しくて、安堵する。その安堵感が欲しい。
「ねえ、スツーカ。分からないことはとても怖いのに、……分かりたくないことも、たくさんあるんだよ」
鳴り止んだはずのアラートが、今もまだ耳の奥にこびりついている。
【13話*end】
【2015.0818.加筆修正】