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「コイツに手ぇ出すな。下手なコトすりゃ、どうなるか分かってんな?」
「っ……! なによオッサン! 行こ、由佳里!」
「ああ!? 誰がオッサンだ、俺はまだンな年じゃねェっての! ――たく、尻尾巻いて逃げるくれェなら最初っから絡んでくるなっつの。オイ、穂香。……穂香? なにやってんだ、行くぞ」
走って逃げていく森田達の背中を呆然と目で追っていた穂香の腕を、アカギが軽く掴んで引いてきた。はっとして歩き出せば、信号がちかちかと明滅していて途中で二人して小走りで横断歩道を駆け抜けた。
たったそれだけで息が上がる。何事もなかったかのように隣を歩くこの人がさっきなにを言ったのか、未だに理解ができなかった。頭の中が雑多な考えでぐるぐると渦を巻き始め、紡がれた言葉を反芻して頬がかっと赤らんだ頃、ようやっと穂香達は家についたのである。
帰宅して夕飯作りを始めようとすると、暇を持て余したのかアカギも手伝うと言って包丁を握ってくれた。ニンジンを任せる間、穂香がピーラーでじゃがいもの皮を剥く。特に会話はなかったけれど、それでも、不思議と息の詰まる感覚はない。目の前のことに集中すればいいのだから、それも当然だった。
「ほれ、切れたぞ」
「あ、すみません……」
切ったニンジンを入れておく皿を手渡したのだが、受け取るなりアカギは難しい顔をしてしまった。途端に不安が穂香を支配する。
なにか余計なことを言っただろうか。不機嫌にさせるようなことをしただろうか。重ねて謝ろうとした穂香よりも先に、アカギが言った。
「お前、すぐに謝るクセどうにかしたらどうだ」
「え……?」
「なんでもかんでも『すみません』と『ごめんなさい』で済むと思ってんだろ。それ、見ててムカつくんだわ」
「す、すみませっ」
反射的に謝りかけて、慌てて口を閉じる。そんなことないと叫びたかった。すべてが謝れば済むだなんて、そんなこと思ったこともない。ただの口癖だ。「穂香ちゃんは礼儀正しいなぁ」今までだって何度もそんな風に言われてきた。それが誰かを不快にさせているだなんて、考えたこともなかった。
謝るなと言われたが、ならばどうすればいいのだろう。機嫌を損ねてしまってすみません。そんな言葉しか思いつかないのに。
アカギがなにを求めているのか、さっぱり分からない。
「都合悪くなったらだんまりかよ」
皮を剥いたじゃがいもが取り上げられ、アカギによってリズムよく一口サイズに切られていく。
少しは距離が近づいたかと思ったのに、それは自分の勘違いだったのだろうか。俯いた穂香を尻目に、アカギは手際よく材料を刻んでいった。
「お前、ほんっと奏と似てねェのな」
胸に針が突き刺さる。
――そんなもの、似ていなくて当然だ。
「これ、こんなもんでいいか」
「あ、は、はい。大丈夫、です。すみ、――ありがとうございます」
綺麗にカットされたじゃがいもが、ニンジンと同じ皿に移されていく。
これ以上ここにはいたくなくて、けれど自分の家から――それも料理中に――逃げ出すことなどできようはずもなく、穂香はただひたすらに唇を噛み締めて俯いていた。
恥ずかしい。誰かに欠点を指摘されることも、それが腹立たしいと言われることも。どうしてそんなことを言うのと心の中で叫んでも、この唇はぴくりとも動かない。弱虫な自分が嫌いだ。臆病でなにもできない。そんな自分を改めて目の前に突き付けないでほしい。
「なんだ、ちゃんと礼も言えんじゃねェか。――オイ、ぼーっとしてないでコッチの皮も剥け。切れねェだろ」
「えっ? ひゃっ!」
ぽいっと無造作に玉ねぎを放られて、慌てて両手で受け止める。なんとか落とさずに済むと、それを見たアカギが「ナイス!」と悪戯っぽく笑った。
――意味が分からない。本当に、彼はなにがしたいのだろう。
混乱したまま玉ねぎの皮を剥き、つるりとした身を手元に返す。即座に手際よく切られていく気持ちの良い音が隣から聞こえてきた。
「つか、さっきの。あれ、余計なことだったか」
「え? あ、いえ、いいえっ! そんなこと、ないです」
それでも、「助けてくれてありがとう」とは言えなかった。もし今日のことを森田達が吹聴すれば、話はより信憑性を増して穂香を追いつめる。けれど、余計なことをしてくれたとも思わなかった。アカギはアカギなりに穂香を庇おうとしてくれたのだと、一応はそう解釈している。