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鳴り響くアラートの音が大きくなる。あっという間に日は落ちた。外灯が灯され、ぼんやりとした白い光によって、薄闇の中、朱塗りの鳥居が浮かび上がる。自分達以外に人はいない。
焦れた様子のナガトが、斜面を警戒しながら薬銃を構えた。
「そう高くない! レベルAかB! だけど危険なことには変わりないだろ、遭遇したらどうするつもりなんだよ! さっさと逃げろ!」
「逃げたって、そいつらはあたしを追いかけてくるんやろ!? やったら、“先生”がおる間に練習せんでどうすんのよ!」
「は!?」
ガサッ! ――暗がりに呑まれた山の斜面。落ち葉を蹴散らす音が耳に届いた。
呻き声が聞こえる。ナガトの舌打ちがそれを追い、「下がれ!」という怒声が重なった。
仄白い光の中、転びそうになりながらこちらを目指して走ってくる人影に、心臓があり得ないほど早鐘を打っている。
「ウ、ァア、グ、アアアアア!」
薄闇の中に見えた姿は、もはや人であって人でない。映画の中に出てくるゾンビでも見ているような気分だった。
――怖い。声を聞き、姿を見、そこではっきりと恐怖を感じ、足が震えた。
迫りくる感染者の瞳に光はない。虚ろな瞳が奏を捉えた。濁った歓声を上げて、感染者は駆ける足の速度を増した。ナガトが苛立ったように薬銃を撃つ。百メートル以上の差があるように見えたが、見事手前の一人に命中し、感染者は斜面を転がり落ちていった。
もう一人にも同じように発砲したが、直前で転ばれたせいで弾は外れた。甘い顔立ちに似合わない、口汚い罵声が神聖な場所に放たれる。
「奏、下がってろって! バカ、前に出るな!」
「言うたやろ、練習するって!」
あれは、本当に人か。
焦点の結ばれない瞳が、ぎょろぎょろと忙しなく動いて奏を追う。滑稽なほどに大きく動かされる両の手足。獣の唸りにしか聞こえない声を上げる口からは、粘ついた唾液が零れているのが見える。
――それが見える距離まで、近づかれた。
「なにするつも、」
「ッ――!」
鞄の中に入れていた薬銃は、すでに取り出してあった。
構え、照準を合わせ、震える手足に無視を決め込み引き金を引く。
――ナガトの薬銃よりも軽い発射音のあと、斜面を転がり落ちる音が薄闇に轟いた。
「…………お見事」
呆然とした声と、乾いた拍手が三回。
全身の力が一気に抜け、その場に膝から崩れ落ちた。呼吸が整わない。全力疾走したわけでもないのに、吸って吐いての簡単な所作が上手くいかない。先ほど拭ったばかりの汗が再びどっと噴き出し、背中をじっとりと濡らしている。
肩で息をする奏を尻目に、ナガトは「ちょっと見てくる」と参拝道から出ていこうとした。
小刻みに震える手が彼の足を掴んでいたのは、無意識だった。引っ張られるような衝撃に驚いたのは、むしろ奏の方だ。目を丸くさせたナガトに見下ろされ、慌てて手を離して首を振る。
「ち、ちがっ」
「……すぐ戻るから。大丈夫だから、いい子で待ってて」
幼い子どもにするように頭を撫でられて、息が詰まる。
暗がりの中に消えていった背を見送って、一気に恐怖が込み上げてきた。手の中の薬銃が、カタカタと鳴いている。それは自分の手が震えているからだと気づいて、笑いそうになって失敗した。歯の根がかみ合わず、ガチガチと不快な音を立てている。
虫の声。淡く浮かぶ朱塗りの鳥居。深い闇に包まれた山の中には、人ならざるものが棲んでいそうだ。この世とあの世を繋ぐ場所。
――それに自身が向かうということは、とても、恐ろしい。
得体の知れない誰かに狙われて、名前も知らない誰かを撃つ。死ぬわけじゃない。殺すわけじゃない。だけれど、自らが放つこの一発で、相手は苦しげな悲鳴を上げ、倒れ込む。
あれは人であって人でない。彼らと遭遇したその瞬間、奏はこの世とあの世の狭間に立たされる。
「おっそろし……」
軽く言ってみたが、身の内に溜まった恐怖はそう簡単に消えていきそうになかった。
人の道から引き摺り降ろし、化物へと変える。それが白の植物がもたらす作用だ。
囮になるということは、今のような体験を何度もするということだ。
――大丈夫。
奏は震えの収まらない手をぎゅっと握り込んで、肺が空になるまで息を吐ききった。ナガトはまだ戻ってこない。暗闇の中、たった一人で身体を縮めて必死に呼吸を整える。喚き続ける恐怖に口枷を填め、逃亡を望む心の手足を叩き折った。
大丈夫。
セイギノミカタは、これくらい簡単にやってのけるでしょう。
【11話*end】
【2015.0705.加筆修正】