3 [ 672/682 ]

 氷を纏った狼がノルガドの前から踵を返し、一声上げて氷を吐く。その尋常ならぬ威力を持った一撃に、邪竜の翼が一部凍りついた。
 食い破られた喉から血が溢れ出るのを感じながら、声にならぬ声で叫ぶ。

「なぜ、貴様がっ、貴様らが……!」
「我らの国は、我らで守る。それが我ら竜の掟であろう」

 美しい竜が言う。
 かつてノルガドが誰よりも慕った竜だった。誰よりも強い力を持ち、誰よりも聡明で、誰よりもノルガドを理解していた。けれど彼は裏切った。よりにもよって、人間などに竜玉を明け渡して。

「ノルガド坊ちゃん、動くなよ。先にその傷を塞ぐ」
「やめっ、」
「言ってる場合か? この状況で必要なのは竜王であるお前と、時渡りのアイツに、氷狼の俺。それから──……果敢な騎士サマだろ?」

 狼の顔でどうやればそんな表情ができるのかと問いたくなるほど得意げな顔をして、滅びたとされる氷狼族の長マスウードが笑った。その背にしがみつく人影にまたしても驚愕と怒りが湧き上がったが、さしものノルガドも分別はついている。
 汚れ一つない白銀の毛並みが、その何倍もの大きさのノルガドに近づいてきた。宙に浮かべた氷の足場を踏んではいるものの、ほとんど翼もないのに飛んでいると言っていい状態だ。
 深く抉れたノルガドの喉元に潜り込み、氷狼の長が苦笑する。その背後では邪竜とかつての裏切り者──リシオルクが激しい戦いを繰り広げているというのに、随分とのんびりとした様子だった。
 竜からすれば小さな舌が、傷口を舐め上げる。玉の在り処ではないとはいえ、急所を氷狼に曝け出すのは落ち着かない。何度か舐められていくうちに、焼けつくような痛みはひんやりとした冷たさに変わっていった。
 血が止まったのだ。己では見ることができないが、きっと傷口は咲き乱れた氷の華で覆われていることだろう。
 口元をかすかに赤く染めた氷狼が、舌なめずりをして邪竜を見る。

「竜退治といこうや、騎士さんよ」

 強張った表情の人間がどういう者か、ノルガドには理解できていた。だが、それを追及するのは今ではない。
 紫の美しい閃光が、邪竜の放つ黒い雷を迎え撃つ。
 その間に飛び込もうとする氷狼の背を、竜王がただ黙って見ているはずもなかった。


+ + +



 沈んでいく太陽が、空の端を赤く染め上げている。
 燃え盛る熱を額に感じながら、ウィンガルドは身体を内から切り裂く激痛の中で薄く笑った。彼の小さな黄金の太陽は、沈む陽の色ではなく昇る陽の色をしているのだと、改めてそう感じたからだ。
 黒い竜巻を纏った母が、竜の空を蹂躙する。仲間達が凄まじい死闘を繰り広げているが、堕ちた竜──それも、かつての王が相手となれば難しいことだろう。実際、竜玉を燃やしてもなお、致命傷を負わせるまでに至らず敗れたのだ。
 墜ちていく。轟々と鳴り響く風の音が鬱陶しい。己は風竜であるというのに、風音を疎む日が来るとは予想だにしていなかった。朦朧とする意識の中で、ウィンガルドは色を変え始めた夕の空に浮かぶ水色の竜を見た。
 弟のように目をかけた竜、ノルガド。その咆哮が自分を呼んでいたように思う。人の子を疎んでいた彼は、ウィンガルドの決断にさぞかし苛立ちと不満を覚えるだろう。馬鹿げていると嘲笑するだろうか。
 それでも、何度時間を巻き戻せたとしても、自分は同じ決断を下すだろう。
 呼吸すら億劫になってきた中、ウィンガルドはかすかに首を動かして地表を確認した。ぐんぐんと迫ってくるそこはオリヴィニスの砂漠地帯で、民家はない。逢瀬を重ねた美しき森からも離れている。
 醜悪なオークの気配が溢れているのが不快極まりなかったが、あそこに墜ちるのであれば上々だ。オリヴィニスの民は屋内に避難しているだろうし、オークで溢れる砂漠のど真ん中に出ている者などいないだろう。
 ──我が愛しき黄金の太陽。
 ウィンガルドはそっと目を閉じ、闇が慰撫するまなうらに彼女の姿を思い描いた。照りのある蜂蜜色の肌としっとりと柔らかな髪からは、常に薬草とミルクの香りがしていた。どこもかしこも小さくて、脆くて、竜の姿のままでは一瞬で命を散らしてしまいそうな危惧があったものの、彼女はウィンガルドが思うよりもずっと頑健であった。


[*prev] [next#]
しおりを挟む


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -