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「月の光。あるいは、その姿。……もっと早く気づくべきだった。我ら竜は月を好む。とりわけその光を。――どれほど巧みに月影に隠れようと、月を奪えばこちらのものだ。もうじき奴はここに来る。……いや、奴らと言うべきか」
「奴ら?」
「獲物は一度逃げた。だが憂うことはない。都合よく、我らの最も忌むべき裏切り者が奴を助けた。こちらは思わぬ収穫だったな。もうじきだ。もうじき、月を求め、必ず奴らは現れる」

 誰のことだ。
 くつくつと漏れる笑声を聞きながら、シエラは必死で頭を働かせていた。一刻も早く逃げ出したいと思う心に鞭を打ち、もうかつての自分ではないのだと、神の後継者であることを受け入れたのだからと、そう言い聞かせる。
 今口を開けば、バスィールの名を呼んでしまいそうだった。己はシエラのためにあるとはっきりと言ったその口から、なにも不安に思うことはないのだと言われればどれほど安心できるだろう。
 迂闊に開かないよう噛み締めた唇に痛みが走り、ぷつ、と皮が切れた。じんわりと血の味が舌先に広がっていく。
 ――その味に、ある記憶がよみがえった。

「まさか……」

 聖域と呼ばれるような場所に暮らし、魔女と繋がりを持ち、シエラに匂いが移るほど近くにいた人物。
 竜と呼ばれたあの姿が、唇に滲んだ血によって浮かび上がる。

「ほう、気がついたのか。ならば、褒美に俺の名を教えてやろう。――我こそが竜の王ノルガド。賢い餌に免じて、特別に名を呼ぶことを許してやる」
「待てっ、アイツは人間だろう!? それがなぜ、どうやってお前達を裏切る!?」
「人間ゆえ、問題なのだ」

 どくり。
 心臓が大きく跳ね上がり、内側から燻る熱が指先まで伝わっていく。今まで氷のように冷えていた部分が、ゆっくり溶けていくような感覚だった。
 もう理由なく触れ合うことはできない、あの大きな手。優しい笑みに、力強い声。幾度となく名を呼ばれ、幾度となく呼んできた。
 手を伸ばすなと、もう一人の自分が引き止める。
 凍らせてしまえ、封じてしまえ。
 どうせ通じ合えないのだから、と。

「殺しはしない。傷つけるつもりもない。お前は、我ら竜にとっても貴重な姫神だ。だが、同時に大事な餌でもある」

 腰を抱いていた竜王ノルガドの腕が、前触れもなく離された。一瞬にして身体の支えがなくなり、シエラを落下感が襲う。恐怖を追うようにジャララッと音が走り、ぴんと張った鎖によって文字通りシエラの身体は空に繋ぎ止められた。
 首が痛い。首輪によって気道が締まり、呼吸がままならない。痛みと息苦しさに零れた涙を無感動に見下ろし、ノルガドは笑った。

「さあ、姫神よ。呼ぶがいい、お前の“竜”を。――この高みから、裏切り者を照らし出せ」

 首輪を掴み、少しでも呼吸を楽にしようともがきながらシエラはノルガドを睨んだ。足掻く足裏が地面を捉えない。見上げれば、まばゆい陽光が眼球を刺す。
 頬を伝い落ちた涙が、音もなく凍った。小さな、とても小さな薄青い氷の花だった。
 シエラには見えない。濡れた金の双眸に映るのは、空と同じ色をした竜の姿だけだ。

「わた、し、にはっ……」

 眩しく輝く黄金の光。
 初夏を飾る新緑の眼差し。
 誓いを立てた銀の刃。

「私のっ、竜なんて、いないっ……!」


 ――そして再び、なにかが凍る音がする。



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(2016.03.23)


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