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*第1話
――夢を、見た。
蒼の羅針盤 「ねえ、シエラ。あんまり無茶しないでね。あなたはいつも無理をするから、少し心配なの。――ああ、でも」
夢の中のあの人は、かすかに笑みを浮かべて言う。あたたかい手が頬を滑り、やけに現実味を帯びた血の香が鼻腔をくすぐった。
あの人の後ろに、おぞましい魔物が牙を向いて迫ってくる。
咆哮が耳朶を叩き、見るからに硬そうな剛毛が天を向いている。
逃げなくては。
そう思うのに体は動かず、声も出ない。あの人の穏やかな笑顔が、その場の状況にとても不釣合いだった。
「大丈夫よね。きっと、あなたを助けてくれる人はいるもの。そう、私みたいに」
黒き影が――魔物が、泥濘のような血を蹴り、音を立てて跳躍する。血を求めて黒光りする牙に、あの人は笑顔のまま自身の腕を差し出した。
ずぶり、と、嫌な音を立てて牙が細い腕に食い込んでいく。腕を伝って地に落ちていく血液は、本当に夢なのかと疑うほどに赤い。
迸った絶叫は声にならず、かすれた空気の音だけがひゅうひゅうと喉から漏れた。
あの人は相変わらず笑顔のままだ。痛みに顔をしかめることもせず、ただ真っ直ぐにこちらを見つめている。
「ねえ、シエラ」
いやだ、と叫びたかった。
あの人が言いたいことは分かる。けれど、どうしても受け入れることはできない。
もうとうの昔に枯れたはずの涙が頬を伝う。泣いても泣いてもどうにもならないと、知っていたはずなのに。それでも、熱い雫が溢れだす。
するとあの人は困ったように眉尻を下げ、魔物に蝕まれていない方の手でそっと拭ってくれた。
綺麗な優しい手だ。この手はいつも、光ある方へと導いてくれた。
「大好きよ、シエラ。誰もあなたを責めはしない。嘘じゃないわ」
だから、ね。
血溜まりが徐々に深紅から黒へと変わっていく。気がつけば、世界の色がすべて白と黒に変化していた。
もうすぐ夢が醒めるのだ。
もう、あの人とは逢えない。
「――生きて」
その言葉と共に、世界が崩れた。
+ + +「昔話を、いたしましょう」
そう言って、目深に外套の頭巾を被った男は語り始めた。
この世界には昔から、まことしやかに伝えられてきた一つの伝説があった。
それは夢としか思えぬ話だと哂った者もいたかもしれないし、馬鹿げていると嘲った者もいたかもしれない。
けれどそれは夢でも幻想でもなく、紛れもない真実だった。人々は今、その現実を目の当たりにし、嘆き悲しみ、また立ち向かおうと声を揃える。
そんな世界の中心とされる巨大な国、アスラナ王国。そこには聖職者や特殊な力のある者が最も多く集まり、国の力も他国とは比べ物にならないほど強大だった。商人達はこぞってアスラナ王国の王都入りを目指し、日々奮闘している。
そんな光を押し固めたようなアスラナ王国の北――王都よりもさらに北、アスラナ城のまさに裏側――に位置する暗黒の森、リロウは魔物の巣窟とされる闇深き森だ。
太陽が真上で輝く昼間でさえも森の中は薄墨を流したかのように暗く、力のない者が足を踏み入れれば生きて帰ってくることは不可能だと言われている。
リロウの森の奥深く、髪一筋の光さえ届かぬその場所から、ひっそりと血に餓えた魔物共が生まれいずるのだ。
「ゆえに、アスラナ王国の王は、他国とは少々変わっておりました」
他国では王は大抵血筋で決まる世襲制だが、かの国では、誰もが認める最高祓魔師が玉座に着く。数多くの祓魔師試験を突破し、見事前王の信頼を得た者こそが次の王となる仕組みになっていた。
「聖職者と呼ばれる人々は、祓魔師だけではございません」
祓魔師とは読んで字の如く、魔を祓う力を持っている「戦う者」だ。
「戦い手がおるのであれば、守り手もまた、この世には必要にございます」
守り手である神官は、魔を遠ざける結界を張ったり、傷を癒す治癒の能力を持つ。
「神の力を与えられた子供達はみな、月の光を掬い取ったような銀の髪をしております。心臓につながる手の甲には、うっすらと十字架の痣が刻まれているのだとか」
聖職者になる運命は生れ落ちたその瞬間に決まり、幼くして彼らは親元を離れ各地の聖職者養成学院へと送られていく。
聖職者の家系というのは極端に少なく、ほとんどないと言っても過言ではないだろう。聖なる才は遺伝によるものではないらしい。
「とはいえ、たった一人、例外がございます」
それが千年に一度、世界が崩壊に向かうときに生を受ける奇跡の子。
「まさにそれは、最後の希望。海や空、どちらとも言えぬ蒼い髪を持ち、瞳は輝く黄金。その力、人智を超え、戦い手と守り手のどちらの能力をも持った、奇跡の子が――」
その者は王でも后でもなく、アスラナ王国に留まらず、この世界を守護する次期神とされる。
「そう、その者は、『神の後継者』と呼ばれます――」