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 いくら魔物の気配が感じ取れなくなったとはいえ、まさか馬上で惰眠を貪ることになると思っていなかった。
 本人でさえも予想し得なかった事態だったのだが、特に気にした風もなくぼんやりと聞こえてくる音に耳を傾ける。
 四肢はぴくりとも動かないのに意識だけがうっすらと残っている状態で、夢か現か分からない空間に彼女はたゆたっている。
 遠くから聞こえてくる音は鼓膜を通して反響し、静かに声として認識させた。
 なにを言っているのか聞き取ろうと集中すれば、途端に雑音が入り込んで邪魔をする。

 ――おいで、おいで。

 誰だ。シエラが問うも、応える声はない。
 もう一度誰だ、と呼びかけたところで、声の主が変わったような気がした。それはひどく心を落ち着かせる声音で、ゆっくりと胸に染み入ってくるようなその声に、彼女は無意識のうちに手を伸ばしていた。
 やわらかな感触が指先に触れる。暖かく心地よいそのぬくもりにもう一度意識は沈み、彼女の寝息が再び聞こえ出す。
 しかし、夢の国へ足を運んでいた彼女を呼び戻そうとする声が、優しいながらもしっかりとした口調で脳に響いてきた。

「――ラ、シエラ! 起きて下さい、シエラ!」
「…………はは、ぎみ?」
「違います、ライナですよシエラ! ……困りましたね、もうお昼前なんですが」

 ふう、と困ったようにつかれたため息が聞こえ、シエラは重たい瞼をのろのろと押し上げた。
 刺すように入り込んでくる陽光にぎゅうと眉を寄せると、傍にいた人物がごそりと動いた気配がして、うっすらと影ができる。
 ぼやける視界の中で、徐々にはっきりとしていった人影は銀の髪をふわりと揺らしていた。
 そこでようやく、虚ろだったシエラの双眸が光を宿し始めた。
 ぱしぱしと何度か瞬いて欠伸を噛み殺し、ぐっと伸びをすれば安堵の息が耳に届く。
 ゆっくりと身を起こし、シエラは乱れた髪を撫で付けながら己を起こした人物を見やった。

「おはようございます、シエラ。よく眠れたようですね」
「ああ……。ここは?」
「アスラナ城の一室です。といっても、今日からここが貴方の部屋ですけどね。ちなみに王都には、昨夜――明け方近くに到着しましたよ」
「……王都の、城」

 もし、この髪が蒼くなければ。もし、この瞳が金でなければ。
 田舎の小さな村に生まれたシエラにとって、一生縁のない場所だった。そんな場所に、今彼女は足をつけている。
 そしてあろうことか、これから先の居住区になるのだという。
 緩慢な動作で首を巡らし、彼女は天井を見上げた。
 ぶら下がったシャンデリアが繊細ながらも迫力を見せる。今まで目にしたことのない天井の高さに、本当にこれが室内なのかと疑ってしまった。
 確かに村にあった教会は吹き抜けだったが、あれは「部屋」ではなかった。建物そのものの高さだったから納得できていたのだが、部屋の天井がこれほどまでに高いと圧巻である。
 美しく磨かれた窓ガラスも、手に触れているシーツの感触も、目に映るものすべてが豪華だ。かつて見たこともないものが溢れかえっている。
 例えば、寝台の脇に置かれた水差し一つにしてもそうだ。金の細工が施してあり、それ一つだけでも売ればしばらくは暮らしていけそうな気がする。
 これが夢ならば、自分はとてつもない想像力を持っているな――とひとりごちて小さく息をついた。
 ふと視線を落とせば、村を出る際に着てきたものとは違う衣服を身に着けている。
 その視線の意味に気がついたのだろう。ライナがああ、と手を合わせて唇を開いた。

「昨晩、侍女達が着替えさせました。さすがにあのまま眠るのは少々憚られますので。男性は一人としてその場にいませんでしたから、ご心配なく」

 後半の台詞の意味を理解するのに丸々二呼吸分かかったシエラは、とりあえず分からないなりにも頷いておいた。
 別に男がいようといまいと構わないのだが、それを言ってしまえばきっと目の前の少女が困ったような顔をするだろうから、口を噤む。
 首を傾ければこきりと骨の鳴る音がして、柳眉を寄せた。

「さっそくで申し訳ないんですが、これから着替えて陛下にご挨拶していただきますね。もちろん、着替えの服は好きなものを選んでいただいて構いませんよ」
「陛下? ……国王、にか?」
「ええ。大丈夫、緊張する必要はありませんよ。女性にはとても優しい方ですから。それはもう、鬱陶しいほどに」
「別に緊張しているわけではないが……」

 ただ、面倒くさい。
 ぽつりとそう零せば案の定ライナは苦笑し、口元を綻ばせながら僅かに首を傾ぐ。

「ええと、ではどのような服にしましょうか。なんでも似合いそうな気がしますけど、やはり……」
「しんか――ライナ、昨日のアイツはどうした?」
「エルクのことですか? エルクなら、今頃騎士館ではないかと。すみません、常に傍にいるべき存在なのに離れさせてしまって。でも、どうか分かって下さいね。彼もこの国を守るための、大事な要だということを」

 ライナは窓の外に見える大きな平屋の建物を眺めながら、優しく微笑んでそう言った。ついで向けられた視線は優しいながらもどこか強い力を宿しており、シエラは無意識のうちに首肯していた。
 それに満足そうに何度か頷いて反応を返し、ライナはそっとシエラの薄い肩を押してベッドから立ち上がらせる。



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