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古に沈んだはずの星見の塔は、人ではない生物達の新しい住処となっていた。絵画を掛けていたのだろう壁のくぼみには小さなエビが体を休め、錆付いた燭台の隙間をするすると泳ぐ。
魚達に導かれるように螺旋階段を下りていけば、三十分としないうちに光は一切差さなくなってしまった。
陽光の代わりに、ぼんやりと発光しているテュールの尾を光源にしてさらに下へ下へと目指す。
シエラには、これが人の手によって造られたものだとは到底思えなかった。石塔の壁にはびっしりと藻が敷き詰められているものの、時折顔を覗かせる浮き彫りの彫刻は、細部にまで趣向を凝らされた至妙の技を感じさせた。
薔薇が彫り込まれた瓦礫を見つけたとき、ここが海中であることを忘れてテュールの作った気泡から出て行きそうになったほど、それは抗いがたい魅力があった。
あのとき慌ててエルクディアが掴んだ腕は、今でもほんの少し熱っぽい痛みを持っている。同時に胸の辺りが締め付けられるような感覚を覚え、シエラは眉をひそめた。
最近、どうにも体調がおかしい気がする。口にすれば心配するだろうからエルクディアやライナには告げていないが、ここ数日の間、不定期に頭痛や眩暈がやってくる。
突然心臓が駆け出すこともしょっちゅうで、微熱が続くことも多い。
今だってそうだ。掴まれたところ以外にも熱が及んでいる。
しばらくどうしたものかと思案していたシエラだったが、すぐにどうしようもないと思い至って小さくかぶりを振った。
魚の尾鰭が揺れるたびに気泡が呼応するかのように振動し、視界を歪める中でライナの隣にいたシルディが突然声を上げる。
それまでは酸素の無駄遣いはやめようと言って誰も口を開かなかったので、久しぶりに鼓膜が捉える声に思いがけず肩が跳ねた。
同じように驚いたらしいライナが、眼だけで何事かを尋ねている。目を細めながら足元を覗き込むように上体を折り曲げたシルディは、底を指差して笑った。
「もうすぐ着くみたいだよ。この星見の塔を抜けた先には、遺跡の大広間っぽいところと繋がってる回廊があると思うから」
曖昧すぎて一抹の不安はよぎるものの、この中にシルディを除いて遺跡に詳しい者などいない。今は彼と運を信じるより他になかった。
重力に逆らうことなく気泡は沈み、螺旋階段のゆるやかな坂に沿って下っていく。
それほど時間も経たないうちに、彼の言うとおりふつりと階段の途切れる場所までやってきた。上部が弓形に曲がった入り口には、石で大輪の花々が彫られている。
小さな天使像のような装飾も見られ、当時の人々の技術力の高さが計り知れた。
そこをくぐると、海水で満たされた回廊が真っ直ぐに続いていた。割れた窓からは自由に魚が行き来し、足元には海草が揺れている。
一体どれほどの時を過ごしたのか、灯りの少ない今では判断がつかない。遺跡に慣れているというシルディでさえ息を呑み、目の前に広がる光景に意識奪われているようだった。
ひんやりとした肌寒さを感じ、シエラは身震いする。それまで流れに沿っていた気泡は中にいる者達が動かない限りは反応しないらしく、皆が足並みを揃えて進まなければぶよぶよとその場で揺れるだけだった。
勝手に進まれても困るので、むしろ助かるというのがシルディの意見だ。いつの間にか先頭に立ち、暗闇の中慎重に歩を進める姿は、陸にいたときとは異なる雰囲気を纏っている。
ある程度進んだところで、シルディはぴたりと足を止めた。
「うーん、やっぱり駄目だね。ちょっとこれじゃあ暗すぎる。もっと明るくないと、よく分からなくて危険だよ」
「では火を灯しましょうか? 火霊が極端に少ないので、うまくいくか分かりませんが……」
「それしかないかなぁ」
テュールが放つ光だけでは足元さえ満足に見えない。真っ暗闇に近い状態で、シエラ達はかろうじて互いの顔の輪郭が確認できる程度だった。
ライナが小瓶を取り出した気配がしたが、彼女が神言を紡ぐ前にシエラは白いワンピースの裾を引っ張る。「どうしました?」と尋ねてくる彼女に、シエラは小さくかぶりを振った。
「少し、息苦しくないか? 潜ったときより、空気が薄くなっている気がする」
「あー……そういえば、そうかもね。クレメンティアはどう思う? 多分、僕達は分からないと思うから」
“僕達”の中に含まれているのはエルクディアとリースだ。
シルディはもともと潜水に長けているので、人並みはずれた肺活量を持っている。エルクディアもリースも武人であるため、いかに効率よく体力を温存させるかを無意識のうちに知っているだろう。
そのため、平常時と変わらぬ呼吸法をしているシエラとライナの感覚が、酸素の残量を知る最も正確な目安になる。
エルクディアが心配げにこちらを見ているのが肌で感じられ、シエラはどこか落ち着かない気分になった。
ちくちく、ではない。つんつん、でもない。彼の視線はリースのものとは違って、痛みなど一切なく向けられる。
しかしユーリのように、内側に侵入してくるような風でもない。