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 すっかり冷え切った夜だった。
 月は細い三日月で、都会の明かりに負けた星は数えるほどしか見えない。それでも冬の澄んだ空気のおかげか、夏に見上げたときよりも星明かりが強く感じた。
 流れてくる独特の臭いに気づいて、眉を寄せながら少しだけ身を乗り出して隣を覗いてみると、面白いものが見えた。
 強く、弱く、ぼんやりと明滅する赤みがかったオレンジ色の光。それはスイッチのオンオフとは違って、徐々に強くなったり弱くなったりを繰り返す。吐き出す息は白い。龍のように夜の闇に立ち昇る紫煙も白い。
 ポケットから携帯を取り出して、スピーカーを指で押さえながらそっと写真を撮った。マナー違反だとは分かっていたので、あくまでもそっと。もちろんフラッシュは切った。
 幸いにもお隣さんは気がつかなかったらしい。
 思わず浮かんでしまう笑みを抑えきれないまま、写真を確認した。ほとんどが真っ暗の画像の中に、オレンジ色の光だけが映っている。顔や場所が分かるようなものが一切映り込んでいないことをしっかりと確かめてから、明里はその画像をSNSサイトにアップロードした。


 画像につけたコメントは、『真冬のホタル、発見!』。


* * *



 一般的に考えて迷惑にならない時間帯に、電話を三回、メールを一通。留守番電話にも、謝罪と、「会って話したい」という内容を残して、夏之は明里からの連絡を待った。
 今朝見たベランダの非常用扉の穴は塞がってはおらず、相変わらずピンク色のスリッパと、きちんと元に戻された鉢植えが覗いていた。まだ繋がっている。そう思ってもいいのだろうか。あれからいくらでも穴は塞げたはずだ。それをしなかったのはまだチャンスがあるからだと、そう自惚れてもいいのだろうか。
 部屋で腐っていても事態が好転するわけもないので、夏之は町を適当にぶらついていた。日曜ともなれば繁華街には人が溢れていて、学生やら家族連れやらで賑わっている。日曜日のお父さんというものは、往々にして運転手と荷物持ちの役割を課せられるらしい。中には不機嫌を絵に描いたような男性もいて、なんのために休みなのかが分からないと言いたげだった。
 商店街をあてもなく歩きながら、今日の夕飯を考える。商店街と言っても、規模は大きく若者向けの流行の店も入っているため、寂れたような、どこか昔懐かしの「商店街」といった雰囲気はない。
 若い店主が花を入れ替えるオシャレな花屋の隣には、恰幅のいい中年女性の営む八百屋があってどこかちぐはぐだ。――夕飯。夕飯はなににしよう。気が乗らなくても、食事を抜くと胃痛がひどくなる体質なのでこればかりは譲れない。スーパーで適当に惣菜でも買って帰ろうか。
 そう思っていた矢先、前方から見覚えのある顔が近づいてきた。向こうはまだ夏之に気づいていないのか、手元の紙とにらめっこをしている。

「――佐野さん」
「え? ああ、影山さん。お買い物ですか?」

 駅前のビルの地下にある、あのバーのマスターの佐野だった。二十代半ば過ぎか、それとももう三十手前か。半ば過ぎなら同じ年頃だが、落ち着いた雰囲気がどことなく夏之よりも「大人」を感じさせる。職業柄かもしれないが、とかく、彼は年齢不詳だった。眼鏡の奥にある細い瞳は穏やかで、人好きのする顔立ちが途端に笑みを形作って、丁寧に会釈した。
 佐野は片手にスーパーのビニール袋を提げており、同じ用向きだとでも思ったのか夏之にそう訊ねてきた。苦笑交じりに首を振る。ついでに、昨日はごちそうさまでしたと言うのも忘れない。

「桃を食べたいって急にごねられまして。それで急遽買出しに来ました」

 誰にとは言わなかったが、夏之の脳裏に浮かんだのはあの美人な歌姫の姿だった。あるいは、奥さんか彼女でもいるのだろう。もしかするとあの歌姫が恋人なのかもしれない。困ったように眉を下げているが、佐野の目はとても優しく、慈愛に満ちていたからだ。
 見せられたビニール袋の中には缶詰の桃缶が二つと、それからヨーグルトやイチゴなどが入っていた。店用の買い出しにしては量が少ないから、個人用には間違いがなさそうだ。
 特に用もなく声をかけたため、話題はすぐに尽きていく。それじゃあまた、と言いかけたところで、背後で女性の悲鳴が聞こえた。反射的に二人の目が声の方を追う。自転車が倒れるけたたましい音。わっとざわめく人々の声。人波の向こうに見えた蹲る人影から垂れる、長い栗色の髪。
 音にすれば、ぞわっ、とでもいったのかもしれない。全身に鳥肌が立ち、「ひったくりだ!」「捕まえろ!」などという三文芝居のような台詞も、ただの雑音にしか聞こえない。マウンテンバイクに跨ったマスクの男が、似合いもしないハンドバッグを片手にこちらへ向かってくる。
 思わず駆け出した夏之の背中に、焦ったような佐野の声が届いた。



「……大丈夫ですか?」

 冬だというのに汗を流して座り込む夏之にハンカチを差し出しながら、佐野は控えめに笑った。
 結局、くだんのひったくり犯は、夏之ではなく大学のラグビー部の部員五人が取り押さえた。必死で走ったが、相手は慣れたマウンテンバイクだ。いくら昔サッカー部に所属していたと言っても、現役ではないから限界はある。そろそろ諦めようかと思ったところで、たまたまコロッケを買い食いしていた彼らが束になって捕まえたと、そういう顛末である。
 ひったくり犯は高校三年生の男の子だった。受験のストレスがどうたらと警察に引き渡される直前に言っていたが、真昼間から商店街でひったくりを実行する頭の軽さでは、受験できる大学もたかが知れていると、夏之は正直な感想を漏らした。
 全力で走ったせいか、足の筋肉が震えている。交番で聴取を受けていた被害者の女性は、背格好こそあの子に似ていたものの、まったくの別人だった。真っ先に追いかけていった夏之の姿を覚えていたのか、交番に入るなり潤んだ瞳で見つめられ、深々と頭を下げられた。素直に感謝の気持ちを受け取れないのは、自分の中に疾しさがあったからに他ならない。

 もしも、あれが明里だったら。
 もしも、ひったくり犯を捕まえたのが自分だったら。

 そんな漫画やドラマのような展開はなかなか訪れない。これが現実だ。
 汗を吸ったハンカチは、次回店に行ったときに返すことを約束した。気を遣わなくていいと佐野は言ってくれたが、自分達は友達と呼べるほどの間柄でもないのでそういうわけにもいかない。
 予想外のことに時間と体力を消費してしまった。そろそろ戻ろうかと腰を上げると、佐野は少し考え込むようにビニール袋の中にある桃缶を見て、言った。

「今から店に来ませんか?」
「え、今から?」
「はい。今、ちょっとしたお客さんが来てまして。ニックが付き合わされて、時間外労働だってふてくされてる。俺も開店の準備があるし、影山さんが手伝ってくれたら助かるんですが」

 どうしてと訊ねたくなる部分は山ほどあったが、佐野のお願いは「お願い」というよりは、「決定事項」に近かった。断る理由を探している合間にあれよあれよと駅前のビルまで連れてこられて、気がつけば地下に続く階段を下りていた。扉にはもちろん、「closed」の看板が掛けられている。
 帰るタイミングをすっかり逃してしまい、夏之は子供のように佐野の後ろに張り付いて店内へと足を踏み入れた。いつもの耳触りのいいBGMはない。真っ暗だと思っていた店内にはぼんやりとランプが照らされ、中に人がいることを知らせてくれた。

「遅い。子供のおつかいじゃあるまいし、どれだけ時間かけてんの」
「お前ね、たまには『おかえり』とか笑顔で言ったらどうなんだ」
「お生憎さま。私は無駄なことはしない主義なんだ」
「抱き締めたくなるくらい憎たらしいね、お前は」
「いいけど高くつくよ」

 入るなりそんな応酬が始まって、夏之は完全に蚊帳の外に追いやられていた。深く詮索したことはないが、佐野とこの歌姫――真凛といったか――は付き合っているのだろうか。それにしては会話の中に色気がない。
 ちょうど陰になっていて見えなかったのだろう。やっと真凛が背後の夏之に気がつき、澄んだ灰色の瞳を丸くさせた。「あんた……」夏之になにか言いかけて、呆れたように佐野を見る。


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