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「どこで拾ってきたの」
「商店街。大事なピアニストと、それに惚れ込んだお姫様の救世主を拾ってきた俺を褒めてほしいね」
「抱き締めたくなるくらい減らず口だね、ほんと」
「遠慮しとくよ」

 まるで夏之を犬猫にでも見立てたかのような真凛の言いぐさに少々むっとしたが、ちらと見てくる双眸の綺麗さにそれは根こそぎ削ぎ取られていく。美人は得だ。心からそう思った。
 真凛はどこか男っぽい仕草で後ろ頭を掻き、佐野を追いやるようにして店の奥に押しやった。普段ならテレビや雑誌の中でしかお目にかかれないような美女が、夏之の目と鼻の先で欠伸を噛み殺している。

「あんたさ、明里とどういう関係なの」

 唐突に聞かれて、夏之は口籠った。
 マンションの隣人。友人。――恋人。
 どれもそのようでいて、どれでもない。名前のつかない曖昧な関係は、二日前に終止符が打たれるはずだった。
 口を開きかけた夏之を、真凛が目の前で手を振って制した。雑なその所作でさえ様になって見えるのだから不思議だ。

「いい、いい。別に答えが聞きたかったわけじゃないし。私にレンアイ相談とかしたって無意味だから。あんたらがどうなろうと私には関係ないし。けど、あまりにも目に余ったから一つだけ言っていい?」
「……どうぞ」
「ばっかじゃない?」

 美女からの痛烈な一言に凍りつく夏之に構わず、真凛はバックヤードへと消えていった。
 いったいなんだというんだ。下から射抜くような視線。恐怖とは異なる感情に身体が竦んだ。案山子のように戸口で棒立ちになっている夏之に、顔だけ覗かせた真凛がぶっきらぼうに「カウンターにでも座っておけば」と言い残して、再び姿を消す。
 よろめくようにカウンターに腰かけて、肺が空になるまで息を吐いた。
 真凛がどこまでこちらの事情を知っているのか分からない。けれど明里は随分とこの店に馴染んでいるようだったし、真凛とも親しいように見えた。話が伝わっていてもおかしくはなさそうだ。
 ガラスの器に綺麗に盛りつけられた缶詰の桃を片手に、佐野が戻ってきた。「どうぞ」と目の前に差し出されたが、どうにも食べる気にはなれない。

「あの、ところで先ほど仰っていた“手伝い”って……?」
「すぐに分かりますよ」

 店内には佐野が言っていたような客の姿は見えず、開店前というだけあって静寂を守っているように見えた。ニックの姿もない。いったいなにを手伝えばいいのだろう。真凛の言葉を頭の片隅に追いやってそんなことを考えていると、バックヤードから大きな黒い影が飛び出してきた。
 それに思い切り飛びつかれてぎょっとしたが、薄明るいオレンジ色の明かりの下でよく見てみるとなんてことはない。この店の自慢のピアニスト、黒人のニックだ。流暢な英語でなにかをぺらぺらと捲くし立てられたが半分も理解できず、曖昧に「ハロー」などと言って誤魔化した。ぎゅうっとハグの力を強められ、蛙が潰れたような声が出る。
 「ごめんごめん」これまた流暢な日本語で謝られ、夏之は訳が分からなくなった。彼は日本語も達者だが、英語の方が楽だということで通常は英語で会話しているらしい。「助かった!」そんな風に言って笑ったニックに肩を叩かれた直後、夏之は自分の耳を疑った。
 淀みもなにもない綺麗な英語の叱責が、ニックと同じようにバックヤードから飛び出してきたからだ。

「Wait! Listen, Nick!! Please listen to――、え……」

 ニックを追いかけてきた小柄な影は、夏之と目が合うなり回れ右をした。だが、佐野と真凛の腕に両肩を掴まれ、あげくの果てには宇宙人のように両手を拘束されて連行されてきた。あまりにも間抜けな姿に唖然とする。顔を赤くして身を捩る明里に構わず、真凛はにっと唇の端を吊り上げ、乱暴とも思える手つきで明里を夏之の隣のスツールに押し付けた。

「さっき散々喚いてた台詞、直接言ってやったら?」

 助けを求めるように明里は首を巡らせて佐野を見たが、彼は素知らぬ顔でニックと話を弾ませている。
 漫画やドラマのような展開は早々簡単に起こりえない――そう思い知ってから一時間も経たないうちに、この状況だ。頭は錆びついて上手く働かない。
 佐野は「それじゃあ準備があるから」とどこかへ行ってしまったし、真凛とニックは「今夜の打ち合わせ」と言って奥のピアノへと向かっていった。ぽろん、ぽろん。戯れとしか思えない旋律を、ニックの指が奏でていく。この距離では、真凛達に声は届かないだろう。
 思いがけず向き合った明里と夏之は、互いに言葉が見つからずに沈黙を守っていた。落ち着かなさに無意識にタバコを取り出しかけ、咥える直前で思いとどまった。明里の視線が、仕舞われていくタバコを追いかけている。
 細い首、形のいい顎、あの夜奪った唇。「帰って」冷たい声音を思い出し、なにから言うべきかと思考の迷路にはまり込んでいた夏之の鼓膜を、か細い声が震わせた。

「……どうして、ここに」
「マスターに連れられて、かな。手伝ってほしいって、言われて」
「なにを?」
「さあ……、なんだろう」

 嘘ではない。佐野はなにを手伝えとも言わなかった。
 時間外労働に悩むニックを助けてくれということならば、自分がやらなければならないことは自ずと見えてくるのだが。
 ぎこちないやり取りはそれだけで逃げ出したくなるが、逃げる気はないし、逃がす気もなかった。真凛とニックに視線を滑らせてみたが、彼らはこちらのことなど微塵も気にした風もなく譜面と向き合っている。これなら、気を遣う必要もなさそうだ。
 たった一日。されど一日。
 こうして姿を見るのは随分と久しぶりの気がした。


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