春に落ちる [ 5/20 ]

*4


 詐欺だ。
 夏之はこたつの天板に顎を預けてぼやいた。これは詐欺だ。
 想像してみてほしい。好みとは外れていても、思わず見惚れてしまうような美人に抱き締めてほしいと言外に誘われ、ほいほい誘いに乗ったら一瞬のうちに冷たいコンクリートの地面に転がされていた男の気持ちを。
 あのあと、明里は「ほらね? だから大丈夫なんですよ〜」などとけらけら笑って部屋に帰っていった。残された夏之が呆然と染みついた天井を見上げていたのは言うまでもない。
 部屋に戻って彼女が言っていた特技をPCで検索すると、さらに苦虫を噛み潰した表情になった。苦い。これは苦すぎる。
 聞き覚えのなかったカタカナ語は、護身術だ。それもどちらかといえば、武術寄りの。「特技は護身術です」ではなく、その流派――と表現してもいいのだろうか――を答える辺り、かじった程度ではないことが伺える。あとのメールでも、次から次へと「父がボクシングのトレーナーなんです」「空手もやってました」「着痩せするタイプなんです」と新事実の発覚だ。イマドキのお嬢さんはこんなものなのだろうか。

 澄ました美人に見えるお隣さん――山城明里は、そこんじょそこらの男には負けない武闘派だった。

 結局のところ、最終的にベランダの非常用扉の件は、明里の無茶苦茶な要求を呑む形になった。カーテンで塞げばいいじゃないですかと提案したのは向こうのくせに、一向に目隠しが施される様子がなかったので、夏之が新聞紙とガムテープで穴を塞いだ。
 ベランダで一服するたびに新聞紙が目について、なんとも言えない気持ちになる。情けないやら恥ずかしいやら。あとはほんの少しの失望だ。――失望と言うと大げさかもしれない。がっかりした、という表現が正しいか。自分がなにに対してそんな感情を抱いているのかもよく分からず、嘆息する。
 雨が吹き込むたびに濡れて穴の開く新聞紙を時折張り替えながら、冬が過ぎた。クリスマスも正月もバレンタインも、彼女のいない独り身には関係のないイベントだった。
 クリスマスに明里は友人らとホームパーティを楽しんでいたようだったが――なにより騒ぎ声がすごかった――、正月は実家に帰省していたようだ。バレンタインは前日の夜、ベランダ越しにタッパーに入ったままのチョコタルトが渡された。それでもかなり嬉しかったなどということは、男の沽券に関わるので伏せておく。

 夜風がほんのりと甘さを増し、厚手のコートをクリーニングに出そうかという頃。下が破れてそれこそカーテンのようにびらびらと棚引く新聞紙の向こう側に、ピンク色のスリッパが現れた。
 それだけでどきりとするこちらの気持ちを知ってか知らずか、向こう側で無邪気な声が上がる。

「あ、影山さんだ。こんばんはー」

 どうして分かったのかと思ったが、夜景を曇らせる紫煙を見て気づく。タバコのにおいだろう。非喫煙者は、喫煙者よりもにおいに敏感だと聞いたことがある。
 黙っていると、明里は手すりの方へ乗り出す形でこちらを覗いてきた。

「こーんばーんはっ」
「……危ないだろ、なにやってんの」
「だって下から覗いたら、影山さん怒るから」

 怒るもなにも、通常開いてはいけない穴からうんたらかんたら。そういった諸々の説教じみた言葉は、初期も初期にさらっと流されて終わっている。いまさら説明するのも面倒で、夏之は込み上げてくる様々なものを飲み込んで「来たいなら来れば」と零した。
 確かに玄関からとは言わなかったが、ベランダから来いと言った覚えもない。だのに喜び勇んで新聞紙を掻き分けてきた彼女を見て、こいつ一発ヤれんじゃねえのなどと、下品なことを思うくらいは許されるんじゃなかろうか。
 ヤれるかヤれないかの下世話な話をリアルに考えた場合、最大の障害は彼女の特技そのものであろうが。

「もう春ですねー」
「まだ寒いけどな。そのうち桜も咲き始めるんじゃない?」

 すっかり年上のお隣さんとの距離感を掴んだ明里の態度は、随分と軟化していた。ふとしたときに方言が零れる回数もずっと増えている。
 それを喜ぶべきか、それともただのいい人としてカテゴライズされたと悲しむべきか、恋の駆け引きから遠退いていた自分には判断しかねた。――恋。無意識に浮かんだその単語に苦笑が漏れる。

「桜咲いたら、お花見しません? シュウの散歩も兼ねて!」

 ――だから、それはいったいどういうつもりのお誘いだ。
 四つも年下の女の子にそれを問うわけにもいかず、フィルターを噛む。相手は成人をとっくに過ぎているのだし、これだけの美人だ。恋愛経験は自分の比ではあるまい。こんな美人が自分に気があるわけないという卑屈な自信と、もしかしたらという淡い期待がせめぎ合う。
 思わず探るような目つきになってしまった夏之に構わず、明里は楽しそうに続けた。

「私、お弁当用意しますよ。だから、行きませんか?」
「――弁当?」
「はい。お花見といえば、お弁当でしょ?」

 誰かの手料理なんて、かれこれ二年近く食べていない。真帆と別れてからは、コンビニ弁当かスーパーで値引きされた総菜を買ってくる生活が続いていた。自炊できないわけではないが、自分が食べるためだけに料理をするのは面倒くさい。そのくせやろうと思ったら必要以上に凝ってしまって、インターネットで拾ってきた横文字全開のややこしいレシピに挑戦したりするのだから、自分でも自分がよく分からない。
 卵焼きが食べたいなあと思った。出汁巻きもいいが、砂糖がたっぷり入った甘めの卵焼きが。――思っただけだったはずのそれは、どうやら口に出てしまっていたらしい。

「卵焼きですか? そんなんいくらでも作りますよー」
「え? あ、マジで?」
「はい。あとなにか食べたいものありますか?」

 自然と話が決定事項のように扱われているが、正直悪い気はしない。悪戯っぽい笑顔に促され、夏之は脳裏にお弁当のおかずを思い浮かべた。

「ベーコンのアスパラ巻き、ハンバーグ、きんぴら……。あとはそうだな、唐揚げとか」
「結構王道ですねー。了解でっす! 腕によりをかけて作るんで、お休みの日、教えて下さいね」

 あれよあれよという間に桜の開花時期に合わせたあたりの休日の予定を聞き出され、取り出した手帳には赤いボールペンで丸がつけられた。返ってきた手帳にはご丁寧に桜のイラストが描かれてあり、強引に埋められた休日が美女との花見だ。悪くはない。悪くはないが、どうにも複雑な気分だ。
 母も姉も男勝りでぐいぐい引っ張っていくタイプだったので、夏之にとってはあまり不快に思うほどのことでもないが、これが別の男だったら「いくら美人でもこれは……」となっていたかもしれない。他人に話せば殺意を向けられることは容易に想像ができたので、そのような真似はしないが。
 
 そして気がつけば待ちに待った――かなり楽しみにしていた自分に気がつき、情けなくなった――花見の日がやってきた。天気もすっかり晴れ渡り、風がなければ少し汗ばむ陽気だ。
 弁当の包みを明里から受け取り、駐車場に向かう。シュウの散歩も兼ねてとのことだったが、そのシュウはここ二、三日体調を崩しているらしく、明里と二人きりになった。
 だったらということで、明里さえよければと提案したドライブは、なんの迷いもなくOKされた。貞操観念ってある? ――そんなことを訊ねようものなら、技の一つくらい決められそうだ。
 車を走らせること二時間弱。桜の名所でもあるそこは、花見客で賑わっていた。車の中からすでにはしゃいでいた明里は、降りるなり待ちきれないと言わんばかりに小走りで公園へ飛び込んでいく。

「影山さーん! こっち! あっちの奥の方、空いてます!」

 満開の桜を背景に、美人が屈託なく笑う。花見客の何人かが明里を見ていた。
 賑やかな空気の中で、薄紅色の花びらが舞っている。日差しが柔らかい。春の甘い香りが、夏之は好きだった。
 伝統的な日本の美が、今まさに目の前にある。咲き誇る姿が美しいのか、一斉に散っていく様が美しいのか。どれも美しいとは思うが、夏之としてはやはり満開の桜が好みだ。
 明里に誘われるままに空いたスペースにレジャーシートを敷きながら、彼女に同じことを問うてみた。満開か、散り際か。彼女は一瞬きょとんとし、真上の桜を見上げて少しだけ考えるそぶりを見せる。

「んー……そう、ですね。私は、あー……どうやろ、難しいなあ。どんなのでも好きですけど、満開前の、咲き始めた頃が一番好きかもしれません」
「咲き始め?」
「はい。ほとんど真っ茶色の木に、ぽつぽつっとピンクの花が咲いてるんです。ああ春なんだなあ、って思えて好き。固い蕾が今か今かと開くのを待っているんだろうなって考えたら、なんだかドキドキしませんか?」

 ――だから、好きです。
 年甲斐もなく心臓が跳ねた。まっすぐに見つめてきた瞳は優しく、満開の桜を写して白く光が入っていた。艶やかなグロスが塗られた唇で「好きです」と言葉が紡がれ、自分に対してではないと分かっているのに、動揺した。
 かわいいと思った。顔や仕草だけではない。彼女の考えが、かわいいと思ったのだ。
 夏之とて春は好きだ。桜の蕾を見れば、春の到来を感じて「ああそろそろか」と思いはする。けれど彼女のように、胸を弾ませることはない。
 てきぱきと広げられていく弁当箱の中には、見た目からして美味そうなおかずがたくさん詰め込まれていた。一体何時起きなのかと訊ねようとして、やめた。
 色鮮やかな卵焼きに箸を伸ばす。

「どうですか?」

 まだ口に入れてもいないうちから聞いてくる明里の表情は真剣そのもので、思わず吹き出しそうになるのを必死でこらえた。
 まずは一口。

「――うん、うまい」
「っ、ほんとですか? ほんまに!? 甘いので大丈夫でしたか?」
「ん、俺、甘い派だし。ちょうどいいよ、ほんとにうまい」
「よかったぁ〜! たっくさん食べて下さいね! 影山さんのために作ったんですから!」

 美人のくせにおっかなくて、おっかないくせにかわいいその人は、今まで見たどの顔よりも幸せそうに笑っていた。
 自分のためだけに作られたという弁当に、まるで高校生のように緊張しながら箸を伸ばす。一口頬張るたびに、明里の笑顔は増していった。
 ふいに風が強く吹く。一斉に薄いピンク色の花弁が舞い、あちこちで歓声が上がった。無邪気すぎる彼女は子供のような笑顔のまま、降ってきた桜の花弁を両手で受け止めて得意げに言った。

「ほら、影山さん! 春、捕まえましたよ!」


 ――さすがにそれは反則だ。



[*prev] [next#]
しおりを挟む


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -