トンデモ理論 [ 4/20 ]

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 山城明里(やましろあかり)、二十二歳。
 有名大学の薬学部に通い、出身は関西だそうだ。大学進学と同時に上京してきたが、彼女の部屋はもともと、姉が恋人と使用していたらしい。犬が飼いたくなって別のマンションに引っ越したため、そのまま譲り受けたのだとか。「一人暮らしには贅沢な間取りなんですけどね」と苦笑する明里の言葉は、そのまま夏之にも突き刺さった。2LKのマンションは、確かに独り身には贅沢だ。
 最近はご近所付き合いが薄くなったと騒がれているが、夏之も例に漏れずご近所さんのことは全然知らない。お隣さんの明里とじっくり話すのも、これが初めてだった。
 ベランダを出るたびにシュウが飛んできて、それを追うように明里が穴から顔を覗かせる。そのままお互いに屈んで大きな穴越しに会話をするのが、非日常的で楽しかった。

 だが、それも今日の夜で終わりだ。パソコンと睨み合って仕事をこなしながら、夏之は気づかれないように小さく息を吐く。今晩、明里の姉がシュウを引き取りに来るらしい。早く帰宅できれば最後に一撫でできただろうが、この調子だと残業決定だ。上司の機嫌がすこぶる悪い今、定時で上がるなどと言えばどんな雷が落とされるか分からない。
 ああそういえば、あの大型犬をどうやって八階まで連れ込んだのか聞いていなかった。帰りも同じ方法で連れ出すだろうから、実際見てみたかったのに。
 悔やんでも仕事が速く終わるわけもない。地道に一つずつ片づけてようやっと退社した頃には、終電まであと数本という時間になっていた。



 習慣というものは恐ろしい。
 身体は疲れきっていて泥のように眠りたかったが、足が自然とベランダに向いていた。カラカラ。ガラス戸を開けた途端、切りつけるような風が室内に吹き込み、カーテンを煽る。待ちきれないとばかりにスリッパを履きながらタバコに火をつけ、手すりに凭れてぷかりと煙を吐き出した。
 ふと、隣を見た。大きな穴が開いた非常用扉からは、なにも飛び出してこない。室外機とピンク色のスリッパ、観葉植物の鉢植えが見えるだけだ。それがひどく寂しさを感じさせた。
 部屋の明かりが漏れているから、彼女はまだ起きているのだろう。片手にも満たない「おやすみ」がもう聞けなくなると思うと、余計に寂しくなる。寂しいというよりは、物足りないといった感覚の方が近いだろうか。ほんの数回のやりとりだ。この穴が塞がれば、以前となんら変わらぬ日常が戻ってくる。たったそれだけのことだった。
 ベランダの隅に黒い毛が落ちているのを見つけて、ちくりと胸が痛んだ。
 今度引っ越すときは、ペットが飼えるマンションにしよう。大きな犬も憧れるが、柴犬くらいの大きさの犬もいい。子犬の頃から飼って、リードなしでも自分の後ろをついてくるようにしつけたい。近所の公園に散歩しに行って、コーヒーを飲みながらベンチで一服。すると向こうから、小さなポメラニアンを連れたかわいい女の子が走ってきたりとか。そんな恥ずかしい妄想を繰り広げてしまうくらいには、疲れているようだった。
 あと一本吸ったら寝よう。二本目に手を伸ばしたところで、ポケットに入れていた携帯が震えた。仕事だろうか。反射的に眉を寄せたが、そこに表示されていた「山城明里」の文字に慌ててメールを確認した。


【Re:
 こんばんは^^ お仕事終わりましたか?】

【Re:re:
 こんばんは。もう帰宅してるよ。いまベランダ】

【Re:re:re:
 お疲れ様です(*´ω`)ちょっとだけお邪魔していいですか?】


 メールが来ただけでも「お」と思ったものだが、予期せぬ返信にさらに「おっ」となった。咥えタバコを上下に揺らし、ぽちぽちと返信する。即レスしたら引かれるのではと考えたところで、意味がない。どうせベランダで暇をしていることはバレているのだ。ここで妙な間を開ける方が自意識過剰で気持ち悪い。
 「いいよ」とだけ返信すると、すぐに隣のカーテンが引かれ、穴から見えるコンクリートの床に光が溢れた。カラカラ。ピンク色のスリッパに、白い素足が滑り込む。
 時間的なこともあり、こちらから覗き込むのは気が引けた。「こんばんは」小声ではにかむ明里が、ひょっこりと穴から顔を出す。服装は赤いジャージだが、どうやらまだ化粧は落としていないらしい。「来る?」さりげなく誘えば、彼女は鼻歌でも歌うように「お邪魔しまーす」と言ってこちら側へやってきた。
 自分の部屋のベランダに女の子と二人きり。――ああ、随分と久しぶりだ。

「で、どうしたの?」
「今日、シュウが帰ったんで、そのご報告をと思いまして。影山さん、ほんっとうにご迷惑をおかけしました! シュウのことも構っていただけて、助かりました」
「いーっていーって。こちらこそ、つかの間の癒しをありがとう。やっぱ犬はいいよなあ。散歩させんの夢なんだよ」
「そう言っていただけると嬉しいです。散歩くらいなら、三角公園がお散歩コースになってるみたいなので、いつでも。むしろ代わりに行ってって頼まれることもしょっちゅうです」

 三角公園はここから自転車で二十分足らずのところにある公園だ。正式名称は忘れたが、公園の形が三角形なのでみんなそう呼んでいる。いつでもどうぞ。美人からそんな社交辞令が飛び出ると、ついつい本気にしたくなる。
 吐く息が白い。二本目を終えかけたところで、明里の視線が自分に集中していることに気がついた。
 ――ちょっと、これは、なあ。意識するなという方が難しい。他愛のない会話を続けながら意識していると、それが見当違いな意識だったことに気づく。
 夏之が紫煙を吐く。明里の唇からはちろちろと白い吐息が零れ、漂う紫煙が風で流れていった頃に色づいた空気が大きくなる。つまりは、そういうことだ。

「――あ、ごめん。タバコ苦手だった?」
「えっ? ああ、いえ、そんなことないですよ。どうぞどうぞ!」
「いや、でも息止めてたっしょ、いま。最近はヘビースモーカーってわけでもないから、言ってくれればいくらでも我慢できるよ、俺」
「あ……、えっと、じゃあ、お願いします」

 年上の隣人というポジションに、明里はまだ距離感を掴み切れていないらしい。苦笑して下げられた頭に触れるのは、まだやめておいた方がよさそうだ。

「そうだ、それで本題なんですけど、明日、管理人さんにお話しておきますね。業者さんは私の部屋から入ってもらうので、少し騒がしくなる程度で済むと思います。三日間お騒がせしました!」

 修理費は全額持ちますから。ここで「負担」という言葉を用いないところがいい。今回の過失は明らかに向こう側にある。そこで「負担」などと言われたら、ちょっと押しつけがましくないかと思ってしまうところだが、そうしないあたりに彼女の聡明さが垣間見える。
 とはいえ、若くてかわいい女の子には格好つけたくなるのが男というもので。

「俺も少し出すよ。学生だと大変だろ? こっちは社会人だし」
「で、でも! そういうわけにはいきません! そこまでご迷惑おかけするわけには!」
「声、ボリューム下げて。学生さんに全額吹っ掛けるのは気が乗らないんだよ。それに、業者入ったら君が一人暮らしだって分かんだろ。いまのご時世、ガスの点検だなんだって入ってきた拍子に、盗聴器とかつけられる事件も少なくないんだぞ。目ぇつけられたらどーすんの」
「それは……、大丈夫ですって」
「もしもの話。そうなったら俺の目覚めが悪いの。それに大体、そういう業者って男だろ? 若い女の子の部屋に入るなんて羨ましい真似は阻止だ阻止」

 半分本音だったのだが、明里は冗談と取ったらしくけらけらと声を上げて笑った。澄まし顔の美人タイプだが、大口を開けて笑うとかわいらしい。「もうっ、なんなん、それ!」笑声の合間に零れてきた方言に、またしても心臓を持っていかれかけた。テレビで大阪のおばちゃんがインタビューを受けているところは何度も見ているが、こんなにかわいいものだとはこれっぽっちも思わなかったのに。

「それじゃ、業者は俺の部屋経由。費用は半々ってことで」
「駄目です。費用は全額私持ち」
「じゃあせめて三分の一」
「全額私」

 涼やかな美人顔な分、真剣な表情をされるとそれだけで迫力が増す。まっすぐな眼差しは少しも揺るがない。赤いジャージに、もこもこのフリースジャケットを羽織っただけの格好をしているくせに、この迫力はなんだ。さっきまでのはにかんだ笑顔とか、ちょっと困ったような表情だとか。そういったものをまったく感じさせない意志の強さが窺えて、四つも年下の女の子に押し負けそうになる。
 さすがにそれはプライドに関わってくるので、一歩退きそうになるのを必死でこらえて毅然とした態度でネクタイを締め直した。

「三分の一。これは譲れない」
「全、額、わ、た、し、ですっ。私だって譲れません。それに、全額って言ったって半分は姉が払ってくれますから。ですから、影山さんにお支払いしていただくわけにはいきません」
「――じゃあ一応聞いておくけど、ここの家賃、どうしてんの?」

 大人気ない手段かと思ったが、一向に折れなさそうな明里に痺れが切れた。
 目に見えて彼女が怯む。強い眼差しがさまよい、唇が悔しそうに歪んだ。

「ここファミリー向けだし、駅も近いし、そんな安いもんじゃないっしょ。大学生のバイト代で全部まかなえるほどじゃないと思うんだけど、ど?」
「…………そう、ですけど。でも、修理代払えるくらいは貯金あります!」
「だったらこんなことに金使ってないで、親御さんに返してやりなよ」
「影山さんに関係ありません」

 さすがにむっとしたのか、明里は眉を寄せてそっぽを向いてしまった。これもデリカシーの問題なのだろうか。まったくもって分からない。
 さてどこで折り合いをつけようかと思案していると、しばらく黙り込んでいた明里がぱっと顔を輝かせた。この顔は知ってる。昔、悪ガキだった弟がよくこんな目をしていた。濡れたビー玉みたいにきらっきらと光を弾かせて、頬をこれでもかと持ち上げて、思い浮かんだ悪戯を披露する。

「だったらいっそ、直さないっていう案はどうですか?」

 ――さも名案だというように、誇らしげに。

「……は?」
「学生だから、家賃を親に負担してもらっている身だから、なんですよね? だったら私が卒業して就職してから直します。それまでに点検があってバレたら、当然私の責任ですから私と姉が費用持ち。また、それまでに影山さんがお引っ越しするっていうなら、そのときは影山さんに三分の一払っていただきますが、お引っ越し祝いはちゃんっとご用意させていただきます」
「ちょ、それ……」

 無茶苦茶だ。まるで小学生のような論法だ。
 あまりの幼稚さに言葉が出てこない。予想の斜め上をぶっ飛んだ提案に戸惑っていると、明里は勝機を見出したと思ったのかさらに得意げに続けた。

「ベランダ開通状態が嫌だっていうのは影山さんの我儘なんですから、私だって我儘言わせてもらいます。費用は全額私持ち。ね?」

 酔っているのか、この女。
 思わずそう言いかけて言葉を飲んだ。有名大学の薬学部。ネームバリューと大学偏差値が、個人の知性に比例しているとは限らない。今まさにその事例を見ているような気がして、夏之は頬を引き攣らせた。

「いや、あのさ、よく考えてみなよ。ベランダ開通状態で困るの、俺より君の方だろ。一人暮らしの男の部屋と繋がってんだぞ? 洗濯物とか覗こうと思えば覗けるし」
「覗くんですか?」
「――それ、俺になんて答えてほしいの」

 ただの布きれに興奮する嗜好は持ち合わせていないが、言いたいことはそれじゃない。そういうことではないのだ。もっと防犯意識というか、危機管理というか。そういった方面の思考回路が欠落しているらしい明里にくどくどと説明していると、彼女は整った顔立ちに整った笑顔を浮かべて、なに一つ理論が整っていないことを言った。
 「うち、盗られて困るものありませんから」お前が一番その危険を孕んでるんだよ、という忠告をするべきか否か。これから先のご近所付き合いや世間体を考えると、言わない方がいい気もする。しかし、今ここで言っておかないと、彼女がのちのち大変なことになりそうだ。

 ――あとから思えば、このときの自分はすっかり「無邪気さ」に騙されていた。彼女は腐っても「有名大学」の薬学部に在籍していて、「美人」で、「二十二歳」だったのだ。

「あのさ、襲われたりとかしたらどうすんの」
「影山さんはそんなことしそうにないですもん。シュウがあんなに懐いたんですから! ね? 穴にはカーテンつけておけば万事解決ですよっ!」
「だからさ、そう簡単に男を信用しちゃ駄目だって言ってんの、俺は」
「大丈夫やってー」

 急に方言で砕けた口調になったかと思うと、明里は微笑を浮かべたまま両手を広げた。そのままゆっくりと近づいてくる。「影山さん」とろりとした甘い声が耳に流れ込んできた。――え。これは、つまり、そういうことなのだろうか。つまりはそういうことだから、開通したままでいいと言われたのだろうか。そういう解釈でいいのだろうか。
 急かすように再び名を呼ばれ、誘われるがままに彼女を抱き締めようと手を伸ばし――、夏之は一瞬で冷たいコンクリートの上に転がっていた。

「趣味は格闘技観戦、特技は合気道。最近習い始めたのはウェンドーです!」

 高校時代のものであろう赤いジャージに、もこもこのフリースジャケット。
 頭には天使の輪っかができるさらさらヘアー。黙って立っていればクールな美人。
 たまに出る方言がかわいいお隣さんを冷たいコンクリートにひっくり返った状態で見上げながら、夏之はぱちくりと目をしばたたかせた。

「…………は?」 



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