苛立ちに任せて服を脱ぎ捨てれば、即座に不満そうな声で「アサヒのへんたーい」と苦情が飛んでくる。そこに一切の恥じらいや警戒心がないことに、さらに苛立ちが煽られた。
 どうしてコイツはこうなんだ。ズボンに手をかけたところで、空から降りた同僚が呑気に「先にお風呂入ってきなよ」と声をかけてくる。その声に、その言葉に、負の感情はこれぽっちも感じられない。だからこそ、意識しなければ気づかない小さな痛みが胸を刺す。
 子犬のような無邪気な瞳が空を見上げるとき、恋でもしているような愛おしさと、どうしようもない切なさが入り混じっていることを知っている。彼女は毎日のように空を飛んでいた。雲の上を泳ぎ、大地を頭上にし、天と地がぐるぐると入れ替わるあの場所で、自由気ままに翼を広げていたのだ。
 そしてその翼は、ある日突然奪われた。

「――サヒ、アサヒ! アサヒってば! なにぼーっとしてんの? くさいから早くお風呂入ってきてって」

「え、あ……、ああ、わりぃ。――つぅか! お前またクリーム零してんだろうが、この馬鹿犬!」

「はぁああああ!? あたしは犬じゃないって言ってるでしょー!? 馬鹿アサヒ! 汗くさ男!!」

 アサヒと比べれば随分と短い手足で飛びかかってきたワコをひらりと避け、小さな頭をぐいぐいと押さえ込んでアサヒは舌を出した。

「お前とはリーチが違うんだよ、リーチが! 風呂いってくっけど、これ以上部屋汚すんじゃねぇぞ!」

「うっわ、むかつく! ぐっちゃぐっちゃにしといてやるからね!」

 キャンキャン吠える子犬を部屋に残し、アサヒは風呂に向かった。
 廊下はどこか薄暗く、大浴場に向かう途中で通るロビーには、天井に一面の星空が投影されている。人工的に作られた夜だ。
 この世界に夜は来ない。沈まぬ太陽が生まれてから、日が暮れることはなくなってしまった。夕焼けも一部の地域でしか見られず、高額のツアーが組まれるほどの絶景となっている。
 ゆえに人々は夜を求め、人工的にそれを作り出した。そこでは望めば星が流れる。どんな季節の星座もいつでも見ることができる。それは確かに美しいけれど、やはり本物の夜とは大きく異なっていて、どこか虚しさを感じることもしばしばだ。はりぼての夜などと言ってしまえば、眉を顰められるに違いないだろうけれど。

「……夜を取り戻せ、ってか?」

 自嘲気味に呟いて、アサヒは汗を流した身体に部屋着を纏った。
 部屋に戻れば、いつものようにベッドの上ですうすうと寝息を立てるワコがいて、サイドテーブルには未開封の胃薬が一袋置いてある。――ああもう、これだから。言いようのない思いに己の頭を掻き回し、溜息と共にその場にへたり込んだ。
 おそらくあのあと、医務室に行ってもらってきたのだろう。彼女はアサヒが胸やけでも起こしたと思ったらしい。やたらと自分に厳しい女医の姿を思い出し、重く長い溜息を吐き出した。

「――ごめんな、ワコ」



 小さな呟きは、誰の耳にも届かない。


(もう一度、彼女と空を飛べたなら――)


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