異夜荘には、ちょっとした手違いで来てしまいました。
本当はわたしが来る予定ではなかったんですけど、でも、今となってはわたしがこっちにやってきて、本当によかったと思っています。
だって、たくさんのお友達ができたんですから!
「遊園地?」
「そうです! お友達にチケットもらったんですけど、くろあちゃんはお勉強が忙しいから無理だって言ってて……。くろあちゃんが一緒じゃないなら、椛さんにあげようと思ったんですけど、椛さんはなっくんと行っておいでって。あっ、くろあちゃんも絶対行ってきてって言うんですよ!」
だから、来週行きませんか?
高校生になったばかりのつきのとの、真新しい制服のスカートが揺れる。やってきた頃よりかは幾分か成長したはずなのに、歯を見せて笑う表情はまったく変わっていない。
一枚で三人まで無料になる特別優待券が、そんな彼女の手の中で誇らしげに背筋を伸ばしていた。
ついこの間まで黎鴉(くろあ)や黎鳴(くろな)と同じ中学校の制服を来ていたというのに、たった一つの年の差がこうも違いを見せつける。
精神年齢は黎鳴の方がずっと上なのに、お姉さんぶりたがるつきのとにとっては、中学生はまだまだ子供に見えた。
「ねえ、なっくん。一緒に行きましょう?」
「学校の友達誘って行きなよ。こっちは受験勉強で忙しい」
「そのお友達にもらったんですぅー。聖さんだって、息抜きは必要だって言ってましたよ? それに、晴明さまも楽しんでおいでって! おみあげ買ってあげなくちゃですもん!」
「ほんっと、のとって……」
「なっくん?」
「……なんでもない。のとがどうして受験合格したのかは、異夜荘七不思議の一つだと思うよ。『おみあげ』じゃなくて『おみやげ』ね。ばかのと」
参考書のページをめくりながら放たれた一言に、膝立ちで黎鳴の足下にまとわりついていたつきのとは、ぱちくりと目をしばたたかせた。そしてかっと頬を赤く染める。
「なっくんのいじわる! そんなこと言うと、もう誘ってあげませんからね!」
「頼んでないから。それより騒がないで。うるさい」
「はうあーっ! もう知りません! ふーんだっ!」
邪魔だと言うように手でしっしとあしらわれ、つきのとは頬を膨らませた。近くにいた白猫を抱き上げ、勢いよく立ち上がる。
不満そうな声を上げた猫に気を取られたのか、一瞬だけ黎鳴の視線がつきのとに向けられた。
そして瞬時に、彼が叫ぶ。
「っ、ばかのと!! 帰ってきたならさっさと着替えろ!」
「へ?」
「にあ、降りろ!」
「ええ? あっ、きゃっ!」
黎鳴がなにに対して怒っているのか気がつくのと同時に、腕の中から猫が飛び出していく。猫の足に引っかかり、捲れ上がっていたスカートの裾を直したつきのとは、少しだけ顔を赤くさせた。
そんなに怒らなくってもいいじゃないですか。ぶう、と唇を尖らしてみても、黎鳴はつきのとには見向きもしない。
怒った理由は分かったが、怒られる理由が分からない。恥ずかしい思いをしたのはこっちの方だし、つきのと自身は、これっぽっちも悪くないと思うのだ。――たぶん。
それに、せっかく遊びに誘ってあげているのにこの態度は、ちょっとひどいんじゃないだろうか。元々甘やかな言葉をかけるような性格ではないと知っているし、そっけなくとも優しいことは十二分に分かっている。
けれど、どうしても納得いかないものはいかないのだ。
「もういーです。なっくんなんか知りません! 学校のお友達探します! なっくんよりも優しい子なんて、いっぱいいっぱーいいるんですから!」
「だったら初めからそうすればいいだろ。オトモダチにもらったんだったら、望み薄だろうけど」
「だ、だったら、せーめーさまを誘います! せーめーさまなら、絶対来てくれますもん!!」
つきのとが異夜荘に来る前に暮らしていた世界は、こことは少し違うところだ。天狐月乃女が開いた不思議な空間は広い森と通じていて、そこの洞窟をくぐり抜けた先が、異夜荘だった。
今でもたまに、月乃女がこちらに顔を出す。なににも縛られない自由な人だから、やってくる頻度はかなり気まぐれだ。土産を持ってくるときもあれば、こちらからなにかを持って帰るときもある。
つきのとは月乃女が持ってきてくれる、晴明からの文(ふみ)を読むのが大好きだった。あちらとこちらでは時間の流れが異なる。写真を手紙に添えると、晴明は大層驚いて成長を祝ってくれた。
高校の制服だって、大抵の人が「かわいいね」と褒めそやしてくれたのに、黎鳴はむっつりと不機嫌そうに黙り込んで、なにも言ってくれなかった。双子の黎鴉はきゃっきゃはしゃいで、かわいいかわいいと何度も言ってくれたのに。
「なっくんのばか……」
ず、とつきのとは鼻をすすった。
目の奥がじんと熱くなる。ぎゅっと唇を引き結んでいなければ、今にも大声を上げて泣きじゃくってしまいそうだ。
「…………なんで、のとがそんな顔するの」
だって。
だって、一緒に行きたかった。
友達に「楽しいよ」と聞いたから。
二人が最近、ずっと根を詰めて頑張っていたから、少しでも息抜きになればと思ったから。
もう一緒の学校に通えなくなったから。
休み時間に、教室に遊びに行くこともできなくなってしまったから。
本当は三人がよかったけれど、黎鴉が「黎鳴を元気にしてあげて!」と頼んできたから。
ここ最近、黎鳴の様子がおかしいことくらい、気がついていたから。
「なっく、の、ばかぁー……!」
黎鳴と一緒に楽しみたかった、だけなのに。
「ばかぁ、あほぉ、かいしょーなしぃー!」
ほろほろと涙が頬を滑る。小さな手のひらで触れた雫が驚くほど熱く、次から次へと溢れていくそれに拭う手が追いつかない。
お姉さんだから、構ってほしいとは言い出せなくてずっと我慢していた。ちょっとずつ距離が開いていくことに気づかないふりをして、必死で変わらないようにしてきた。
「なっく、は、なっくんなのに、なんか違うみたいでやだぁー」
「なっくん」から「男の子」になって、どこかへ行ってしまうような気がして、どうしようもなく不安だった。「くろあちゃん」は、大きくなっても「くろあちゃん」なのに。
ぐずるつきのとは、そのとき黎鳴がどんな表情をしているのか知る由もない。それゆえに、眉間にしわを刻み、どこか痛みを堪えるような大人びた少年の心中など、微塵も想像できやしなかった。
キィ。椅子が軋む音がした。出会った頃は変わらなかったのに、いつの間にか見上げなくてはならなくなってしまった黎鳴が、無言でつきのとの前に立つ。
涙の伝う滑らかな頬に彼の指先が触れ、目があった瞬間に、それは戸惑うように震えた。
「なっく、ん……?」
乱暴に目元をこすられる。
驚いて泣きやんでも、そのぬくもりは離れようとはしない。
「……あのさ」
ぐっと影が落ちてくる。
鼻先を掠めた香りは同じシャンプーのはずなのに、どこか少し異なっていた。
「ちょっとはこっちの気持ちも考えなよ、ばかのと」
「うひゃっ!!」
右と左、両方の頬に痛みが走る。
ばっと手で覆い、つきのとは目を白黒させて黎鳴を見上げた。べ、と舌を出して見下ろしてくる彼の表情は、どこか呆れたようでいて、少し意地悪だ。
「餅みたいだから、食べられるのかと思った」
「んなっ……!! わたしのほっぺたはお餅じゃありません〜っ!」
かじりつかれた右の頬を押さえ、つきのとは兎のようにぴょんぴょん跳ね上がって抗議する。「初めて知った」などと嘯く黎鳴の背中をばしんと叩いて、つきのとは憤然として部屋を出た。
くろあちゃんに言いつけてやる!
ぷんすかと擬音がつきそうな足取りで廊下を進もうとする背に、黎鳴が声をかける。
「何時に行くのか、決めておきなよ。どうせ電車の乗り換え、分からないんでしょ」
「えっ!?」
「あとそのチケット貸して。のとに持たせておいたらなくしそう」
「えっ、え、あのっ」
「……なに」
ずいっと差し伸べられた手にチケットを乗せ、つきのとは黎鳴を見上げた。
これはつまり、そういうことだろうか。
理解した途端、花が綻ぶように一気に表情が明るくなる。とろけるような笑顔で、つきのとは黎鳴に飛びついた。
「えっへへ〜、なっくん大好きです!!」
「――っ! ……知ってるよ、ばかのと」
ほら、ひとつ動いた
(くろあちゃんくろあちゃんっ、あのね!)
(つきちゃん、ご機嫌だね!)
(おきつねさまおきつねさまっ、あのね!)
(野兎風情が生意気な)