隣からは、すうすうと穏やかな寝息が聞こえている。
つきのとは枕元にある時計を確認し、長身と短針がぴったり重なっているのを見てにんまりと笑った。隠していた小包を引っ張り出して、小さく寝言を漏らす黎鴉に気づかれないよう、慎重にベッドを抜け出した。
目指すはすぐ隣、黎鳴のベッドだ。
「――っくん、なっくん。起きてください、なっくん」
「んんー? って、え、ちょ、のとっ、なにし――」
「しーっ! 静かに! くろあちゃんが起きちゃいますよう! 声出しちゃ駄目です!」
子供体温としか言いようのないあたたかい手のひらが、ぺちんと音を立てて黎鳴の口を塞ぐ。明かりを消した薄闇の中、黎鳴は自らの上に乗りかかっている重さにくらりと目眩がしそうになった。一瞬夢を見ているのかと思ったが、それはそれでひどく頭痛がする夢だ。
――つきのとが、自分の上に馬乗りになっている夢を見るだなんて。
なんとか落ち着こうと深呼吸すると、ふわり、と甘い香りが鼻先をくすぐった。どこかで嗅いだことのあるその香りは、この時期特有のものだ。そういえば、明日だったろうかと、現実逃避を続ける頭が2月14日の存在を思い出させた。
「しー、ですよ、なっくん。しーっ」
悪戯が成功したような笑みを浮かべて、つきのとはずりずりと這って顔の方に近付いてくる。「せーめーさまはどういう教育してたのさ」目をそらしながら呟くと、彼女はくてんと首を傾げた。暗がりの中ではその顔もよく見えない。それは彼女も同じらしく、ぐっと顔を近づけてきた。
とくり。跳ね上がった心臓に気づかないふりをして、ぼんやりと見えている彼女を呆れたように睨む。
「……なにしてんの、ばかのと」
「あ、そーゆーこと言うとあげませんよー? いーんですか? つきのと特製、すぺしあるなチョコレートですよー?」
「……………」
「なっくん?」
ひらひらと小箱を自慢げに見せつけてくるつきのとと、枕元の時計を見比べた。12時3分だ。日付はちょうど変わったところで、つまりは今日が14日――いわゆる、バレンタインだった。
それは理解できた。「すぺしあるなチョコレート」を見せびらかすつきのとの意図も、なんとなく理解できた。しかし、この時間、この体勢になる意味が理解できない。
明日――正確には今日だが――の朝に渡せばいいことではないか。なにも日付が変わった瞬間に、無理やり起こしてまで渡すものでもないだろうに。
反応のない黎鳴を訝って、つきのとがきゅうと眉を下げた。「怒っちゃいましたか……?」ぺちゃん。まるで長い兎の耳が力なく垂れているような幻覚が見えて、それを振り払う意味も含めて黎鳴は首を振った。
「怒ってないから、とりあえずどいて。……重いんだけど」
「はうあっ! 乙女に向かって、ひつれーですよ!」
「『しつれい』ね、ばかのと。――って、だからなんで僕のとこに入ってくるわけ!?」
「だって寒いんですもん。それより、しーっですよ、なっくん。これは重大ミッションなんですから!」
黎鳴のベッドに潜り込むことに成功したつきのとは、すんっと小さく洟をすすってからへらりと笑った。「ふたりだとあったかいですねー」当たり前のように黎鳴の枕を半分奪い、そんなことを言う。
訳の分からない感情に混乱しそうになりながら、彼はなんとか平静を保とうと大きく息を吸った。落ち着こうとするたびに甘い香りがして、余計に落ち着かなくなる。
「すなおじゃないなっくんに、おねーさんからプレゼントです! えっへへ、ハッピーバレンタイン!」
「……なんで今なのさ」
「へ? だって今日は、なっくんに一番に渡したかったんですもん」
さらっと言われて、急激に頬が熱くなるのを自覚した。
「……大好きなせーめーさまには、あげなくていいわけ?」
「あげますよ? でも、あっちではバレンタインってイベント、ないんですもん。今日はおきつねさまが遊びに来るって言ってたので、そのときに持って帰ってもらうんです!」
いつもいつも、もとの次元に住んでいる「晴明さま」が一番だと話すつきのとが、彼よりも黎鳴を優先させると言った。
ほこほことした熱に布団の中が満たされていく。間近で感じる体温に、とくとくと心臓が高鳴り続ける。
「それと、おきつねさまからなっくんだけに、特別にプレゼント預かってるんです! だから、くろあちゃんにも椛さんにも、みーんなに内緒で渡さなきゃ駄目だって言われて。はい、どーぞ!」
手渡されたのは愛らしいラッピングが施された小箱と、一枚の和紙だった。どうやら手紙になっているようだ。
はらり。開くと、筆ではなく指先に墨をつけて書いたらしい字が、流れるようにして書かれていた。
「ねーねー、なっくん、なんて書いてあるんですか?」
興味津津のつきのとが覗き込んでくるが、この暗がりでは見えるはずもない。しかし電気をつければ黎鴉が起きてしまうだろう。少しだけ残念そうに唇を尖らせて、つきのとは「あとで教えてくださいね」と耳打ちしてきた。
ふわり。髪に残っている甘い香りは、チョコレートのものだ。
そろそろ自分のベッドに戻るように言っても、つきのとは聞こえていない様子で小箱をつついた。暗闇の中でも分かる、黒曜石と同じ色のきらきらとした瞳がまっすぐに黎鳴を見つめる。
「なっくんなっくん、これね、手作りなんですよ? 椛さんにお願いして、手伝ってもらったんです!」
「ふうん……。で? だから、なに?」
「むう。だーかーら、きっとね、おいしいんです! ほっぺた落ちちゃいますよ? とろっとろですよ?」
「そう、それは楽しみだね」
「……なっくんの意地悪」
ぶう、と頬を膨らませたつきのとは、そのままぐるりと寝返りを打って黎鳴に背を向けた。そうじゃなくて、自分のベッドに戻りなよ。言ったところで聞かないだろうことは目に見えていたので、黎鳴は大きなため息をついて小箱のリボンをほどく。
少しずつ包装紙がはがされていくその音に、つきのとの肩がぴくりと反応を示した。まるで、本物の兎だ。
小さな箱の中には、不格好な丸い塊が五つほど入っていた。振り向きたいのに意地になってしまって振り向けない、そんなつきのとの背中を意地悪く見つめながら、一つを口に放り込む。
随分とココアパウダーがかかっていたけれど、それは甘く、口の中でとろけていった。
「……のと」
「なっ、なんですかー?」
「こっち向いて」
「え、あ、ひゃうっ!」
ぐいっと小さな肩に手をかけて身体を反転させる。驚いて開いた口を狙って、いびつな塊を一つ、むぎゅっと押し入れた。指先に触れた柔らかすぎる感触を意識しないように努めながら、瞠目するつきのとに舌を出す。今頃彼女の口の中では自分と同じように、カカオパウダーの粉っぽさと、優しい甘さがとろけているはずだ。
指先についたパウダーをぺろりとひと舐めして、黎鳴はつきのとの額をぴんっと弾いた。
「共犯。虫歯になっても、恨みっこなしだから」
それからこれ、悪くないよ。
小声で囁いてやると、つきのとは嬉しそうに笑った。「とーぜんです!」生意気な口を聞く彼女にもう一発指弾を決めて、暗闇の中でくすくすと笑い合う。
――甘い罪の共有も、悪くはない。
(ふあ……。あれ、つきちゃん、黎鳴と一緒に寝てたの!? ずっるーい! って、黎鳴、そのお手紙なーに?)
(……『深紅のりぼん、橙のらっぴんぐ、なまもの』?)
(おきつねさま、わたしにもプレゼントくれるんですか!?)
(ああ、我が見繕った着物だ。喜べ)