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コツ、コツ――……。
足音は次第に大きくなり、そしてそれは無情にもこの部屋の前でぴたりと止まった。誰もが願う。どうか来るなと神に祈るような気持ちで組み合わされた両手を、天上の存在は嘲笑ったに違いない。
ピーッと鳴り響いた、ロック解除の音。
無情にも自動ドアがスライドし、ゼロの背後で息を呑む音がいくつも重なった。
セキュリティが解除されたということは、それすなわち相手がここの職員だということだ。未感染の職員か。淡い期待が浮かんでくるが、廊下からはなにも聞こえない。
不気味なほど静かに、相手は扉の前に設置されたバリケードを眺めているようだった。
「ゼロ……」
囁くような声でワカバが「どうする?」と問う。
今にも心臓が破裂しそうなほど早鐘を打ち、口の中が異様に乾いた。
一言も発することなく、姿の見えぬ相手がバリケードに手をかけた。まだ分からない。未感染かもしれない。――けれど。
そのガタッという音がした瞬間、極限まで張りつめられた緊張の糸はついに限界を迎え、ぷつりと音を立てて切れてしまったのだった。
「う、うわぁああああっ!」
「なっ」
「――あ、ァア、ヒュフッ!」
「動かないで!」
パニックを起こした職員の一人が、室内に侵入しようとする人物めがけて本を投げる。祈るような期待も虚しく、悲鳴を聞きつけて感染者が覚醒した。血で汚れた白衣を振り乱して絶叫し、凄まじい勢いでバリケードが崩される。ガラガラと音を立てながら光が揺れる。
恐怖に呑まれた職員らは完全に正気を欠き、資料棚の上で我先にと天井のダクトに再び登ろうと躍起になっていた。
「くっ!」
パァンッ!
やむなくワカバが発砲し、薬弾は崩れるバリケードを擦り抜けて見事に感染者の左肩を貫いた。感染レベルが低ければすぐにでも薬の効果が出るだろうが、この状況では微塵も安心できない。一発の銃声、そして絶え間なく響く悲鳴によって各フロアの感染者たちがこの部屋に大挙して押し寄せてくるのは目に見えていた。
廊下から聞こえてくる足音が数を増す。心臓を容赦なく締め上げてくる奇声が足を竦ませ、暗闇から逃げることを許さない。
「じっとしてろって、オッサン! 静かにしてろよ、大丈夫だから!」
我慢できずに怒鳴ったが、彼らの耳には届かない。その間にも廊下からは、悲鳴に覆い被さるように足音と奇声が響いてきている。
カッターナイフを握る手が震えた。バリケードを直す余裕もない。なにか気を逸らせるものはないかと辺りを見回したが、咄嗟には見つからなかった。
職員の半数がダクトに逃げ込み、残された職員は「早く行け!」「退け!」と怒鳴り合っている。軍人ならばなんとかしろと怒声がゼロたちを急き立て、その声に応えるようにワカバが再び引き金を引いた。
「フュ、アハッ、いる、イる、ニげル、なぜ?」
「クソッ、どけぇっ!」
「――きゃあっ!」
「ワカバ!」
三十を超えているであろう男が、顔面蒼白でワカバを突き飛ばした。生への執着が人の感覚を狂わせる。
小さな身体がバランスを崩して傾き、資料棚から転げ落ちる。頭から逆さまに落ちるその様子を、ゼロは不思議とスローモーションで見た。
それとほぼ同時に、バリケードを破り侵入してくる感染者が、二体。彼らはまだ入り口の辺りでげらげらと笑っているが、感染者の身体能力で走り寄ってこられれば一瞬だ。
気がつけば、ゼロの身体は浮遊感に包まれていた。胃の腑が浮き上がり、強い衝撃と共に足裏が床を踏む。じんと痺れた両足には激しい痛みが突き抜けたが、捻ったりはしていないだろう。大きな瞳に涙の膜が浮かんだが、それを笑う者はここにはいなかった。
「ゼロ、逃げて!」
「できるわけないだろ! ワカバ、それ貸せ!」
受け身をとったのだろうが、ワカバが軽く足を痛めているのはすぐに分かった。半ばもぎ取るように薬銃を受け取り、今まさに標的を見つけて走り出そうと踏み込んだ感染者の腹に薬弾を撃ち込む。
怯んだその隙に、無茶を知りつつ、ゼロは引き抜いた分厚い辞典を全力で投げつけた。日頃は非力だと馬鹿にされ続ける細腕だが、これでも一応厳しい訓練に耐える身だ。直線的に飛んでいったそれは、よろめく感染者の頭に見事命中した。
どっと音を立てて一人が倒れる。
ほとんど動いていないというのに、全力疾走したとき以上に息が切れていた。荒い呼吸が耳につく。今すぐ耳を抉り取って、震えをもたらす邪魔な心臓を止めてしまいたい。
「うわっ、うわあああああっ! 助けてくれ!!」
感染者に足を掴まれ、職員の一人が書類棚の上から引き摺り降ろされる。ダンッとしたたかに背中を打ちつける音が響き、男の首を絞めようと感染者がのしかかっている。このまま接触する時間が長引けば、あの職員も感染してしまうだろう。
銃口を向ける。照準の定まらない腕が情けなく、荒い呼吸に嫌気がさす。