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 主任がそう呼びかけ、職員たちが次々に資料棚の上に登っていく。ゼロたちも同様に、奥側の、けれど職員たちよりも手前の資料棚に登って出入り口を睨んだ。
 部屋の電気は消してある。窓にはシャッターが下りているため、廊下からの明かりしか入り込まない。薄暗い資料室はどこか不気味だった。
 緊張で口が渇き、心臓が早鐘を打つ。震える一歩寸前の声で、ゼロはワカバにそっと話しかけた。

「……ワカバ、これ持ってて」
「え? でも……」
「地上じゃ、ワカバの方が射撃の成績いいだろ。俺はさっきいいもの見つけたから」
「いいものって……。まさかそんなカッターで応戦する気!?」

 握りは太く刃も大きなものだったが、それでもただのカッターナイフだ。ワカバが表情を険しくさせるのも無理はないが、役割分担は正確にした方がいい。

「大丈夫だって。ここの扉は職員じゃないと開けられないんだろ? たとえ無理やり破られたとしても、これだけのバリケードがあればその間に始末できる。そのためには、腕のいい方が持っておくべきだろ」

 もしもここにハルナがいたのなら、この薬銃は確実に彼の手にある。
 そう言って薬銃を手渡せば、ワカバは安全装置を解除しながら小さく溜息を吐いた。その吐息が震えている。
 それだけではなかった。彼女の唇は色を失くし、表情も強張っている。薬銃を握る手も小刻みに震え、極度の緊張に囚われているようだった。
 どれほど気丈に振る舞っていても、逃げようのない恐怖が付き纏う。それはゼロも一緒だった。
 実際に感染者を相手にした訓練はまだ先の予定だった。その訓練だって、周りには何人ものベテラン教官たちがついていて、いざというときのフォローも完璧だ。
 それがまさか、こんなところで感染者と対峙することになるだなんて。

「……ワカバは、これが初めてじゃないんだっけ?」
「うん。前に一度、自然公園の中で遭遇したことがある。……そのときは武器もなくて、ただ逃げることしかできなかった」
「怖かった?」
「当たり前だよ。すごく怖かった。……でも、あのときも、今も。守らなきゃって思うから、平気」
「そっか……」

 ゼロは背後をそっと見やり、ワカバの「守らなきゃ」の発言を何度か咀嚼して飲み込んだ。
 相手は民間人だ。確かに守らなければならないだろう。
 けれどゼロには、彼女ほどの決意がどうしても湧いてこない。ワカバを守りたいとは思う。おこがましいが、ハルナのことだって。これがキリシマやシュミットであっても同じことだ。仲間であれば守りたいと思う。
 この世に残された緑だってそうだ。あれは守り抜き、そして世界に溢れさせたいと思う。

「(ああ、そっか。守るっていうより、むしろ……)」

 浮かんできた答えに、ゼロは薄く笑った。
 仲間を、緑を守りたい。その気持ちはもちろんあるけれど、後ろにいるような見ず知らずの人間を「守らなくては」と思う気持ちはなかなか生まれない。
 それも当然だった。

「……ここが空ならよかったのに」
「え?」
「飛行樹に乗れば、あんな奴らすぐに倒してやるのに。白の植物も、感染者も、邪魔する奴らは全部」
「ゼロ……?」

 雲を貫き、風すら切り裂く勢いで飛ぶ。青の中に閃光が弾け、血管が千切れる音を聞きながら重力に刃向って。
 骨の軋む痛みすら心地よく感じる、あの世界なら。
 あの場所で戦いたい。あの場所でなら、どんな敵をも確実に倒してみせる。
 そうすれば、誰かを守ることにも繋がるのだろう。

「あっ、ねえ、ゼロ!」

 小声ながらも鋭く呼びかけられ、ゼロの意識は地上に戻った。合図を受けて息を潜めれば、明かりの差し込む廊下から足音が近づいてくる。
 様子の変わったゼロたちを見て、職員たちが血相を変えた。怯えて立ち上がろうとする彼らを、ワカバがキッと睨んで窘める。

「動かないで。音を立てないで、じっとしてて」

 今のところ、聞こえてくる足音は一つだけだ。これはハルナのものだろうか。希望に満ちた考えが浮かんだが、冷静さの残る頭がそれを否定する。
 ハルナであれば、こんな状況で足音を立てるはずがない。
 心臓が大きく跳ね上がった。ワカバが薬銃を構え、細く長く息を吐き出して気持ちを落ち着かせているのが見える。ゼロもその隣でカッターナイフを握り締め、懸命に気配を殺した。


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