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 あんな風に構い倒されるのも悪くない。紙袋の中のタルトの重みが、そのまま幸せとなってワカバの手に馴染んでくる。
 柔らかな風が吹き抜ける。髪を攫って顔のあちこちに悪戯を仕掛けるそれに四苦八苦していたら、急に頭に重みが乗った。驚いて顔を上げれば、無表情を貼りつけたようなニノカタがこちらを見下ろしていた。
 鮮やかに色づき甘く香りを放つ生花を扱うその手が、ワカバの頭に乗っている。ほんのりと漂う緑の香りが、その袖口から零れ落ちてくる。そのまま雑に頭を掻き回され、憎まれ口は言葉にならず散っていった。
 絞り出せたのは、ありきたりな一言だけだ。

「……なに?」
「いや、別に。ぼさぼさでぶっさいくな頭してんなと思って」
「はぁああああああああ!?」

 ほんの一瞬でもドキリとした自分が恥ずかしい。
 日々の訓練の賜物で、鍛えられた腹筋から絞り出された叫びが空気を震わせた。思いのほか響いたその声に、前方からやってきていた若い男がびくりと身体を跳ねさせる。
 申し訳なさと恥ずかしさに縮こまりそうになったワカバだったが、なにかを感じ取って動きを止めた。細かな棘が刺さるような、この妙な違和感はなんだ。研ぎ澄ませた感覚に問いかける。
 あからさまに挙動不審になった男に、拾い上げた記憶の欠片が警鐘を鳴らす。

「ニノカタさん、これ持ってて! それから警察にコール!」
「は?」

 お土産の入った紙袋をニノカタに突き出すようにして手渡し、ワカバは手首に填めていたシュシュで手早く髪を束ねた。幸い、今日の靴はローヒールだ。相手との距離はざっと百メートルほど。平淡な道で人通りもなく、ワカバを阻む者は誰もいない。
 目を白黒させるニノカタは、未だ状況が把握できていないらしい。そんなことでよくフローリストなんて職に就いていられるものだと半ば呆れつつ、ワカバは強く地面を蹴りだした。

「あいつひったくり犯! フミさん襲った犯人!!」
「はあ!? や、でも、証拠が、」
「やましいことがないなら逃げない! ワカバのこと見て逃げ出したのがなによりの証拠! それに、捕まえてから吐かせれば十分!!」

 風を切る。翻るスカートの裾から白い太腿が覗いたところで、それを揶揄する者は誰もいない。あっという間に遠ざかったニノカタが呆然としながら、両手いっぱいの荷物を抱えて警察にコールしているくらいだろう。
 あの日の雪辱を晴らすべく、ワカバは必死で逃げる男を追いかけた。
 今度こそ逃がさない。絶対にこの手で捕まえて、「もう二度としません」と心の底から懺悔するまで許さない。いや、懺悔したところで許してなるものか。乱れそうになる呼吸を意識して整えながら、相手との距離を詰めていく。
 堤防を下って逃げようとした男に、自然と笑みが浮かんだ。ド素人がこのスピードを維持したまま、あんな坂を駆け下りられるとでも思っているのか。

「逃がすと思うなっ!!」

 腹の底から叫んだ怒声に、案の定男の足は縺れて堤防を転がり落ちていった。重心を一定に保ちながら坂を駆け下り、無様に地面に横たわる男の背へ足裏を踏み下ろす。そのまま全体重をかけつつ膝をつき、ショルダーバッグの肩掛けの部分で男の手首を後ろ手に縛りあげた。スニーカーの紐を抜き取り、足首も縛って地面に転がす。

「テメェ、ぶっ殺すぞクソガキ!」

 手足を縛られ、芋虫のように転がされてもなお威勢だけはよく叫ぶ男に、心底呆れが込み上げてきた。乱暴な言葉を使って大声で脅せば怯えるとでも思っているのだろうか。
 確かに、ワカバと同じ年頃の“普通の”女の子なら怯えたかもしれない。だが、この男は自分が誰によってこの状況に追い込まれたかを、これっぽっちも理解できていない様子だった。
 馬鹿の一つ覚えのように「ぶっ殺す」を叫ぶ男の首に、ワカバはそっと手を伸ばした。力は入れず、触れるだけだ。小さな親指が、男の喉仏を軽く押す。

「ぶっ殺す? やれるもんならやってみなさいよ。――軍人舐めんな!」

 鼻先が触れ合うほど至近距離で怒鳴りつけたその一言によって、男の表情から血の気が引いていく。その頃やっと追いついたニノカタが、堤防の上から慎重に下りてきた。一応走って来たのか、その肩は軽く上下している。
 タルトは無事だろうか。傾いていたら今夜も深夜三時にコールしてやろうと、そう心に固く誓う。

「この人逃げないように押さえといて。手の方外すけど、絶対逃がさないでね。あと、ニノカタさんが捕まえたことにしといて」
「は!? いや、お前はどうすんだよ」
「ワカバには門限があるの! 警察で事情説明とかしてたら絶対間に合わないもん」
「だからって……」
「それじゃあ、あとはよろしくね! フミさんにお礼言っておいてよ!」

 ショルダーバッグを回収し、服の乱れを整えて堤防を上がる。背後から男の呻き声とニノカタの困惑した声が追いかけてきたが、聞こえないふりを貫き通した。
 堤防を上がりきると、息を切らせて走ってくる若い女性と擦れ違った。今にも崩れ落ちそうになったその人が、枯れかけの声で「ひったくり……!」と零すのを聞いて目を瞠る。

「盗られたんですか?」
「そ、そうっ……! 私のっ、鞄っ」

 盗んだ鞄なら、この辺りに転がっているはずだ。綺麗に整えられた黒髪を乱してぜいぜいと荒い呼吸を繰り返すその人に、ワカバは満面の笑みを浮かべて言った。

「それならきっと大丈夫ですよ。あそこにいる人が犯人を捕まえてくれましたから」

 地面に横たわる男とニノカタを見て、女性の表情が安堵へと変わっていく。
 時間を気にして小走りで立ち去ったワカバは、このとき己の甘さを自覚していなかった。現行犯ならば警察にも説明しやすくてちょうどいい――そんなことしか、考えていなかったのだ。


 花は咲く。
 零れた種から、予期せぬところに。


(2014.1028)


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