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act.8:ここで会ったが百年目!


「ワカバちゃんってば本当にかわいいわねぇ。こんなかわいい娘、私も欲しかったわ」

 コトコトとスープの煮える音が、優しく耳を慰める。食欲を誘う香りを楽しみながら、ワカバはデザート用の赤林檎を丁寧に切り分けた。
 友人と呼ぶには歳の離れたその人は、フミという。たれ目がちの瞳が穏やかな性質を表していて、おっとりとした口調も見たままだ。
 五十代半ばの彼女とワカバが出会ったのは、ひょんなことがきっかけだった。

「ご両親もさぞかしご自慢に思っているでしょうねぇ。だってこんなにもかわいいのに、とーっても強いんだもの」
「そんな、まだまだですよ。……結局、犯人は取り逃がしちゃいましたし」
「あら、いいのよ、そんなこと。嫌なこと思い出させちゃったわね、ごめんなさい。でもね、ワカバちゃん。何度も言っているけれど、鞄が無事に戻ってきて本当に助かっているのよ。ね?」

 鍋を掻き回していた手を休め、フミは柔らかく微笑みかけてきた。
 先週の休みを利用して買い物に出かけていたワカバは、突然聞こえてきた悲鳴と「ひったくり!」という叫びに突き動かされるようにして犯人を追ったのだ。手に持っていた買い物袋を思い切り投げつけてやったところ、犯人の男は痛みに驚いてひったくった鞄を取り落としたが、そのまま自転車で逃走してしまった。
 なんとか鞄は取り戻したものの、犯人を逃したことはワカバにとって大きな屈辱となっている。
 そのときひったくりの被害に遭っていたのが、他でもないフミだった。この上なく感謝され、「お礼にご馳走させてくださいな」と頼まれたものの、その日は門限が間近に迫っていたので断った。すると彼女は穏やかながらも有無を言わさぬ笑顔で連絡先を交換し、今度の休みにお昼を食べに来るようにとの約束を取り付けてきたのだった。
 そうして今に至るのだが、ワカバはまず、その自宅の大きさに圧倒された。住所が高級住宅街にあった辺りでおおよその予測はついていたが、それにしたって立派な家だ。淡いクリーム色の外壁には天然色の蔦が這っている。言うまでもなく、ここは高度な浄化システムが作動している特別浄化区域だ。
 庭の芝生も青々としている。窓辺には鉢植えが並び、愛らしい生花が咲いていた。どうやら自分が助けたのは、相当なマダムだったらしい。

「本当はお店の方にご招待したかったんだけれど、そうするときっと緊張してしまうだろうから。自宅でごめんなさいね」
「いえ、とんでもないです! 素敵なお家にお招きいただいて、本当に嬉しく思います」
「まあ、嬉しい。自分の家だと思って寛いでいってね」

 フミは自分でレストランを経営しているらしく、自分も厨房で包丁を握る立場にあるとのことだった。客人とはいえなにもせず座っているのが落ち着かなくて手伝いを申し出たところ、彼女は快く隣に立たせてくれた。作業の合間に興味本位で店の名前を聞いた瞬間、ワカバでも知っている高級レストランの名前がさらりと飛び出してきて愕然とする。
 まばゆいシンクと広々としたキッチンが、突然別世界のように思えて他ならない。当たり前のように出てくる天然色の高級野菜に恐る恐る包丁を入れながら、ワカバはテーブルの上で揺れる薔薇の花に目を向けた。

「それにしても、本当に綺麗なお花ですね」
「でしょう? 昔からお花は大好きでね。でも、こんなご時世でしょう? 造花で我慢しようかと思っていたんだけれど、息子がきちんとした管理方法を教えてくれたの。おかげさまでこんな風にお花を楽しめるのよ」
「おばさまの息子さんは、お花に詳しいんですか?」
「ええ、とっても。自慢させてちょうだい、ワカバちゃん。あのね、おばさんの息子、フローリストなの」

 悪戯っぽく笑って、フミは若い少女のように「きゃっ」と両頬に手を当てた。
 フローリストと言えば文句なしの高給取りだ。この世の中で最も安定した職業だとも言われていて、フローリストと聞けば誰もが一目置く職業だと言っても過言ではない。

「えっ、すごい! 優秀な方なんですね」
「うふふ、そうなの。――ああ、そろそろ息子が帰ってくる時間ね。夜勤明けだから少し疲れてるかもしれないけれど」
「え……、そんなときにお邪魔しちゃって大丈夫ですか?」
「いいのよ。あの子、外面だけはいいから。きっとワカバちゃんにも優しく、」

 ちょうどそのタイミングで、玄関から物音が聞こえた。電子ロックが解除された音だ。「あ、帰ってきたわ」フミの声が弾む。
 立派な社会人を相手に失礼のないようにと、ワカバはエプロンのずれを直して身構えた。足音が近づいてくる。「ただいまー」疲れの滲んだ声が擦りガラス越しに聞こえ、廊下とリビングを隔てる扉が開いた瞬間――“二人”は言葉を失った。
 どさりと鞄が床に落ちる。

「……なっ、なんでいるんだ、お前!?」
「ニノカタさんこそ……!」

 男性にしては少し長めの黒髪が、僅かに乱れてうなじの辺りに散っている。いつも束ねているところしか見ていなかったが、どうやら帰宅と同時に解いたらしい。彼の手にはヘアゴムが握られていた。黒縁眼鏡の奥には、たれ目がちの焦げ茶の瞳が限界まで瞠られてワカバを凝視している。
 一見すれば穏やかなだけの風貌。たれ目がちな瞳。フローリストの息子。外面だけはいい。
 頭が痛むのを覚えて、ワカバは己の悪運を呪った。
 どうして気づかなかったのだろう。要素としては完璧だ。こうして見てみると、フミとニノカタはそっくりではないか。



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