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 こんなところで死ぬのはまっぴらごめんだ。ニノカタの手を引き、ワカバは再び駆け出した。坂を駆け上がり、茂みに飛び込んで中腰のままひた走る。途中、飛びかかってきた感染イタチを枝切りばさみで薙ぎ払った。
 強盗とは比べ物にならない恐怖だ。人であって人でないものが、このどこかにいる。それはすぐそこに迫ってくるかもしれない。――そして、自分もそうなるかもしれない。その計り知れない恐怖が全身を震わせる。
 岩場に隠れ、ワカバは滲む涙を誤魔化しつつ神経を研ぎ澄ませた。足音は聞こえるか。あの不気味な笑声は。端末のトラップで一度は逃げ切れたが、獲物がいないと知ればすぐにまた彼らは自分達を探しに来るだろう。
 あと八分。

「見ろ、あれ!」

 ニノカタに指さされて見上げた先に、立ち昇る赤い煙が見えた。避難完了を告げる発煙筒の煙だ。
 一縷の希望に、ワカバの心が幾ばくか安堵する。

「キャンプ場の方に戻ろう。あそこは開けてるし、植物も少ない。それに、武器がたくさんある」
「おまっ、戦う気か!?」
「んなわけないでしょ!? あと八分逃げ切ればいいの、そうすれば助けが来るの! ……今のワカバじゃ、感染者とは戦えない。だから逃げるの。隠れるの」

 悔しい。
 歯噛みしながら、足早にキャンプ場方面を目指した。軍属の人間がいながら、助けを待つことしかできないだなんて。走れば走るだけ息が上がる。足がもつれる。それでも、走らなければ命が危うい。
 なんとかキャンプ場が見える位置まで戻ってくると、広場には慌ててその場を逃げ出した様子が見て取れた。張りかけのテントや、まだ火の燻るバーベキューの炭火、地面に散乱した食器類がそのときの混乱具合を告げている。あともう少し。あそこまで行けば、なんとかなる。
 ぐっと拳を握り締めたワカバは、枝を踏み折る音を聞いて反射的にニノカタを背に庇った。突き出した枝切りばさみの刃からは、先ほど切りつけた感染イタチの血が滴っている。

「逃ゲるニげる逃げる逃ゲル、なゼ? フひュッ、あハハはッ!」

 もつれる舌が放つ人語はひどくたどたどしいものの、意味を理解することができる。だとすれば、そのレベルはどのくらいだったろうか。座学で学んだ知識を頭の奥から引っ張り出し、震えそうになる手足を誤魔化した。
 ただ獣のように吠えるだけではない。かといって、流暢な言葉でもない。レベルBからCといったところだろうか。だとすれば治療可能レベルだ。間違っても殺処分は許されない。

「……ニノカタさん、ワカバが合図したら走って」
「は?」

 感染者との距離は百メートルもないだろう。キャンプ場までの距離と同じくらいだ。全力で走れば、どうにかなる。
 上擦ったニノカタの声を聞きながら、ワカバは恐怖に笑い出しそうになる膝を叱咤して落ち着かせていた。気を抜けば、唯一の武器を取り落としそうになる。
 相手は走ってこない。見つけた獲物を嬲ることに決めたのか、ゆっくりと一歩ずつ近づいてくる。

「ワカバが引きつける。ニノカタさんは逃げて」
「なに言ってんだ、ガキ置いてそんな真似できるか!」
「民間人に怪我させるわけにはいかないの! さっさと行って! ――軍人舐めんな!」

 腹の底から叫んだ怒声に煽られたのか、感染者の目がぎょろりと一周回ってはっきりとワカバを捉えた。その足が土を蹴り、こちらに向かって走り出す。
 放たれる奇声に身体が竦んだ。――怖い。なんとかしてニノカタを守らなければならないのに、恐怖に飲み込まれた身体はこれっぽっちも言うことをきかない。悲鳴すら出てこず、棒立ちのまま走り来る感染者を前にすることしかできなかった。
 そんなワカバの身体が、一瞬にして硬いものに包まれた。汗に混じった優しい花の香りが鼻腔から侵入する。感染者の奇声さえ封じるような腕の強さに、信じられない思いで目を瞠った。
 ――動かなきゃ、守らなきゃ、離して。
 慌ててもがけども、ニノカタはしっかりとワカバを抱き込んで離さない。
 感染者の足音が迫る。喉が潰れたような歓声が間近に迫る。あと数歩でその爪がニノカタを貫くと思った瞬間、弾ける銃声が鼓膜を叩いた。

「大丈夫!?」

 ――王子様。
 腰を抜かして座り込んだニノカタに引きずられるように膝をついたワカバは、上空から滑り降りてきたその人を見てそんなことを思った。自分でもそれがどれほど馬鹿げている思考か分かってはいたが、それでも思ってしまったものは仕方がない。
 木漏れ日を受けて輝く柔らかな髪に、人懐っこそうな茶色の瞳。これが土色の迷彩服ではなく儀礼服だったら、その人はまさしく「王子様」にしか見えなかっただろう。
 簡易飛行樹を畳み、彼は倒れ込む感染者に小さな機械を翳して状態を確認した。感染レベルと鎮静の具合を確かめているのだろう。薬銃の効果が出たことを確実に確認し終えたのか、彼は無線でその旨を報告し、穏やかな笑顔でワカバ達に向き直った。

「テールベルト空軍の者です。もう大丈夫ですよ。怪我はありませんか?」
「あ、ありません……。あの、ありがとう、ございます」
「どういたしまして。念のため感染チェックと洗浄作業をしなければならないんですが……、少々お待ちください。今、担架を用意します」
「いえ、大丈夫です! わたしは自分で歩けます! ニノカタさんも大丈夫だよね?」
「え、あ、ああ……」

 放心状態のニノカタの手を引いて立たせれば、「王子様」は小さく笑った。
 ほっとしたのもつかの間、再び茂みが激しく音を立てたせいで一気に心臓が跳ね上がる。「王子様」はワカバ達を背に庇い、流れるような動作で薬銃を構えた。「――誰か」相手を確認するその厳しい問いかけに、茂みの向こうから声が返ってくる。



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