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「え、なに? なんてっ!?」
「――さ、ん。おと、う、さん……」
「――父さん? ちょお待ってて、今会社に電話するから!」

 この時間ならば父は仕事に出ているはずだ。職場の電話番号を探そうと携帯を取り出したところで、先に警察と救急車を呼んだ方がいいことに気がついた。
 震える指先でダイヤルする。いち、いち、ぜ――

「うぉおおおおオオオオッおああああゥアアアアアあああああっ!!!」
「ッ――!? な、なに……?」

 家の奥、リビングの方から男性の絶叫が轟いてきた。喉が壊れそうなほどの叫びと、次々に物が薙ぎ倒されていく音。まるで獣が暴れ回っているかのようだ。
 なによりも戦慄したのは、その声が父の物とよく似ていたことだった。

「う、そ、やろ……? 父さん……?」

 思考が追いつかない。なぜ会社にいるはずの父がいるのかだとか、なぜ母が怪我をして倒れているのかだとか、この叫び声、惨状はどういうことなのかだとか、全部。
 誘われるように、奏はふらりと立ち上がった。何度も転びそうになりながら、リビングとダイニングに続く扉を開ける。
 その先に広がっていたのは、信じられない――信じたくなどない、地獄絵図だった。
 母が絶対にこれがいいと言って聞かなかった白いビーンズ型のテーブルの上には、昼食の残りや、調味料、割れた食器の破片が散乱していた。引っ越す前の家から使っている古い食器棚は扉が開け放たれ、ほとんどの食器が床に落とされている。水は勢いよく流され、あちこちに投げつけられたらしい卵が、でろりと嫌な模様を作っていた。
 地震かなにかが起きたのかと目を疑いたくなるような惨状の中、目を真っ赤に充血させ、獣のように荒い呼吸を続ける父の姿があった。
 別人へと変わり果てた父と目が合った瞬間、腰から下の力が抜けた。手のひらが熱い。ちゃり、と音がしたから、割れたガラスで切ったのかもしれない。

「とう、さ……」

 温厚なはずの父は、もはや見る影もなかった。腰を曲げ、ぎらぎらと目を光らせ、口の端から涎を垂らしてじりじりと近づいてくるこの悪魔のような男が、父のはずがなかった。なら、これは誰だ。――分からない。ただ、恐怖だけが質量を増していく。
 膨れ上がった恐怖で喉の奥が塞がり、「助けて」とも「やめて」とも叫べない。ただ這うように後退するだけで精一杯だ。
 父の姿を借りた悪魔の手には、母の手にしっくりとなじむ包丁が握られていた。悪魔は迷いなく、その切っ先を奏に向ける。

「いや……、父さん……っ、父さんっ!」
「ウ、ぐァアアア!」

 おぞましい唸り声に、反射的に目を伏せた。

「おいっ、無事か!?」
「え……? あっ、あんたっ……!」

 ぱしゃん!、と勢いをつけた水の音が聞こえたと思ったら、父は顔を両手で押さえてうずくまっていた。奏の腕を掴んで無理矢理立たせた男には、見覚えがあった。忘れもしない、あの奇妙な夜――奏を後ろから羽交い締めにした長身の男だ。確か、アカギと名乗ったはずだ。
 ひどく苦しんでいる様子の声に、はっとした。勢いよく液体をかけたようだが、あれは酸かなにかだろうか。
 よろけながらも父は立ち上がり、手にした包丁の切っ先をアカギへと向けた。舌打ちが頭上で鳴る。

「完全にツかれてやがんな……。ナガト! 姉ちゃん頼むぞっ!」
「えっ、きゃあああっ!」

 両手で腰を捕まれたかと思うと、一瞬にして足が床から離れた。持ち上げられたのだと自覚するよりも早く、ぶんっと身体が投げられる。恐怖に硬直する奏に訪れた衝撃は、硬いフローリングでも壁でもなく、程良い温もりを持った人間の感触だった。
 恐々目を開ける。確認せずとも分かっていた。あの男がアカギなら、今自分を受け止めている男はナガトに違いない。

「たっくさー、パスしろっつったけど、女の子ぶん投げるバカがどこにいるんだって話だよね。ごめんね、怖かった?」
「あ……」
「おっと、大丈夫? ……ん? ああ、そっか。手と足、切ってるね。だからか」

 なにが「だからか」なのは分からなかったが、手足の切り傷を指摘され、ようやっと奏は自分の身体に意識を向けた。ぱっくりと割れた手のひらから鮮血が流れ出るのを見た瞬間、先ほどまで痛みを感じていなかったそこが急激に痛み出す。膝や太股も切っているらしい。立っているのもやっとだ。
 ひょいっとナガトに片腕で抱えられ、奏は慌ててその腕を掴んだ。まだこの場から離れるわけにはいかない。

「なに? あっちはアカギに任せておけば大丈夫だよ。とりあえず、安全なところへ避難して手当しないと」
「むり! なんなん!? なにがあったん!? あいつ、父さんになにする気!?」
「こらっ、危ないから暴れないで! 大丈夫だって、別に危害加えるわけじゃな――……あ」
「――うるぁっ!!」
「うグァアアアアアアっ!」

 ごっ、と鈍く凄まじい音と共に、アカギの蹴りが父を襲う。激しく床を転がる父の姿に、奏の中でなにかが切れる音がした。

「なっ、にしとんねん!!」

 ナガトを突き飛ばして力任せに腕から逃げ出し、足の怪我など素知らぬふりで駆けて、アカギに全力で当て身をしてやった。
 思いも寄らぬ方面からの攻撃ゆえか、屈強な男の身体がぐらりと揺れる。そのままバランスを崩してダイニングテーブルに背中をつけた彼に、半ば馬乗りになるような体勢で詰め寄り、奏は思い切り頬を叩いた。

「あんたっ、殺す気か!」
「は!? おまっ、ふざけんな! とにかくどけ! 危ねェだろうが!!」
「どうせあんたらが父さんになんかしたんやろ!? ええ加減にせぇよ!!」
「違うっつってんだろ! ――っ、あぶ、」

 目を見開くアカギの双眸には、奏の背後で包丁を振り上げる父の姿が映り込んでいた。身体を竦ませる奏の後ろから、身体と身体がぶつかる音が聞こえる。

「無駄口叩く暇があるならさっさと動けっての、バーカ」
「お前がこの女見とかねェからだろうが!!」

 父の腕を掴み、ナガトが巧みにその腕を捻り上げて包丁を床に落とさせる。素早く足を捌き、体勢を変えながら手の届かないところまで包丁を蹴り飛ばすと、狂ったように叫びながらもがく父の身体を拘束しようと、彼は全力で奮闘しているようだった。
 その場に転がされるようにしてアカギの上からどかされ、奏はダイニングテーブルに腰掛けたまま、二人の男が父を押さえようと奮闘する場面を見つめることしかできなくなった。身体が動かない。声が出ない。これが現実だとは思えない。
 「暴れんな!」アカギの怒号が飛ぶ。父が大きく吠えるのと同時に、凛としたよく通る女性の声でその場が満たされた。

「Freeze!」

 それが警告だということは雰囲気で分かった。意味を理解する間もなく、反射的に身体が制止する。
 視線を声のする方へ向けた瞬間、鼓膜を破りそうな破裂音がパァンッ!、と鳴り響いた。

「Hello, glad to meet you.」

 運動会でよく聞くあの音よりも遥かに大きく乾いたそれに、びりびりと鼓膜が震えている。どさりと、父が崩れ落ちた。
 扉にもたれ、見知らぬ女性が微笑んでいる。彼女は肉厚な唇を、手にしたものに押し当てた。
 黒い塗装が施されたそれは、やはり運動会で見たものや、おもちゃ屋、テレビの中などで日常的に目にするもので。けれど、この日本においては、非日常のもので。
 女性はたおやかな手でそれをくるりと一回転させ、妖艶に微笑みながら奏に向かって銃口を向けた。


「――Bang!」




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