6 [ 179/184 ]


「今日はね、その話をしに来たんだ」

 ぽつりと零すナガトは、穂香の淹れてくれたコーヒーを一口啜って笑った。貼りつけたような笑みに、穂香の表情がますます曇る。沈黙を守る奏は、やはりなにも言おうとはしなかった。

「もうあれから一年以上が経ってる。だから、ほのちゃんの記憶も書き換えが可能なんだよ。さっきアカギが言ったように、会える確率が上がるって言っても、確実に会えるわけじゃない。遠距離なんてもんじゃないんだ。もう実感してると思うけど、プレート間恋愛なんて正気の沙汰じゃないって言われるほどきつい。――忘れた方が幸せかもしれない」

 アカギではいつまでも言えそうになかった台詞を代わりに言ってくれたのだと、そのときになってようやく悟った。穂香が奏と同じように俯き、その表情が伺えなくなる。また泣くのだろうか。あのときのように、声を殺して。
 つらいのは嫌だと、苦しいのは嫌だと、そう言って忘却を望むのだろうか。その方がいいに決まっている。ろくに連絡もできず、生きているのかも死んでいるのかも分からない相手を思うだけ時間の無駄だ。
 一年半もの間に彼女が未だに自分を思い続けているとは思っていなかったが、再会した瞬間にそんな仮定は覆された。迷いなく飛び込んできた小さな身体。躊躇いなくアカギの名を呼び、やっと会えたと泣きじゃくる姿を前に、どうしようもなく立ち尽くすことしかできなかった。
 忘れた方がいいに決まってる。ナガト任せではなく自分の口からも告げねばなるまいとそう決意した瞬間、低い声音がアカギを呼んだ。思わず隣を見たが、ナガトは心外だと言うように首を振る。次いで奏を見たが、彼女も驚いたように目を丸くさせているだけで、なにも言った様子はない。ただその視線の先には、穂香がいた。

「……アカギさん」
「はい」

 思いがけない迫力に、思わず敬語で応えていた。普段ならばすぐさまからかってくるナガトも、今や言葉を失っている。
 静かな声は決して大きくない。怒鳴ったわけでも唸っているわけでもないのに、逆らえないなにかがあった。

「ちょっと来てください」
「え、オイ……」
「こっちです」

 アカギの顔も見ずに立ち上がった穂香が、ローテーブルの上にカップを残して背を向けた。リビングから続く廊下へ、スリッパの音が伸びていく。
 「はよ行ったら?」と奏に声をかけられるまで、アカギはその場で中途半端に腰を浮かせて固まっていた。


* * *



 しんと静まり返ったリビングに残されたナガトは、壁に掛けられた時計を見てそろそろ日付が変わることを知った。外泊許可は得ているから問題ない。もちろん、このままここに泊まるつもりはなかった。話だけして、アカギと二人どこかのカプセルホテルでも探すか、空渡艦に戻る算段でいた。遅くなるようなら帰る予定でも外泊届を出すのは、門限のある軍人の悲しい性だ。
 奏が子どものように両手に抱えたマグカップの中身は、きっともうすっかり冷めてしまっているだろう。少し走れば汗ばむ季節だから、それくらいがちょうどいいのかもしれないけれど。
 ほとんど溶けてしまった保冷剤をローテーブルに置いて、ナガトは己の頬にそっと手を当てた。ひんやりとした頬からは、痛みは随分と引いている。
 前もきっかり二回ぶたれた。あのときは、それでもいいと思えるご褒美が待っていた。けれど今回は、“それ”を取り上げる合図だったのだろうか。

「ほのちゃん、怒っちゃったかな」
「たぶん」

 返ってきたのはたった一言だ。奏といるのにこんなにも沈黙が続くだなんて、想像もしていなかった。何度思い出しても、彼女は言葉を覚えたばかりの子どもよろしく「どうしてなんで」と好奇心を振り回していたからだ。
 笑ったり怒ったり、忙しかった。けれど今は、その表情からはなんの感情も見えてこない。もう二度と会えないと思っていた相手が目の前にいるのに、どういうわけか心は重く沈んでいくばかりだ。
 「奏はどうする?」そう一言聞けばいい。それですべてが終わる。そう確信が生まれた。きっと彼女は、もうすでに新しい生活を歩んでいたのだろう。ナガトは過去として清算されていたのだ。今さら現れたところでどうしようもなかった。別に彼女が悪いわけではない。誰も悪くない。そんなことくらい、理解している。
 すでに忘れていたのなら、今度こそ綺麗に忘れさせてやった方がいいのだろう。――彼女にとっても、自分にとっても。

「……記憶操作っていってもさ、そんな大層なことやるわけじゃないから。注射とか痛いのじゃないし。すぐ済むから」

 ナガトを見て、「どちらさまですか?」と言い放った奏の姿を思い出した。

「あ、そうだ、最近どう? もう大学は卒業したんだっけ?」
「就職した。社会人二年目。営業してる」
「うわ、もう二年目かー。上手くいってる?」
「第二営業部の次期エース。現エースは部長。女のくせにって、ハゲ課長がやかましいけど」
「あはっ、奏らしい。営業だったら忙しいんじゃない?」

 心を殺せ。感情を出すな。こんなことくらいなんでもない。
 会話を引き出すのは得意だ。大げさに笑うのも、それが嘘っぽくないように見せるのだって得意だ。なにも気にしてないふりをするのだって。


[*prev] [next#]
しおりを挟む

back
top

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -