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 もう二度と、会えないと思っていた。理解もしていたし、納得もしていた。夢のような記憶を確かに持ちながら、他の大多数の人がそうであるように平凡な人生を歩み、いつかは誰かと結婚して、子どもを産んで、そうして暮らしていくのだろうと。
 それでいいと、思っていたのに。
 なにも考えずに動くのはもうやめようと思っていた。実際そうできていたはずだった。なのに、右腕がひゅっと風を切る。乾いた音と衝撃と、それから次第に熱を持つ手のひら。
 ようやく顔を上げた先に、きょとんと目を丸くさせた“彼”がいた。一気に喧騒が戻ってくる。痴話喧嘩かと囃し立てる酔っ払いに、野次馬根性でこちらを見つめるほろ酔いの学生達。

「――このプレートの挨拶って、ビンタだったっけ」

 頬を押さえながらうんざりしたように吐き捨てられた軽口は、あの頃と少しも変わらない。右手がじんと痛む。痺れたような痛みと熱に、これが夢ではないと悟る。
 夢じゃないなら、目の前にいるこれは誰だ。

「俺さ、あっちみたいな再会を期待してたんだけど」

 肩を落としながら、彼が言う。指さされた方を見れば、穂香が長躯の男性にしがみついていた。往来のど真ん中だ。当然冷やかしの声が投げられるが、そんなものは聞こえていないとばかりに彼女はきつく抱き着いて離れない。
 躊躇いがちに触れた手が細い身体を引き剥がそうとして、結局やめたのを奏は見た。自棄になったように、逞しい腕が穂香の背に回る。「アカギさんっ」震えた声が、そう零した。歓喜の涙を流し、何度も何度も名を呼ぶ声が、奏の耳にも現実を連れて滑り込んでくる。
 あれがアカギなら、目の前の彼は。
 泣きぼくろは左目の下にある。熱を持った頬はうっすらと赤く染まっているけれど、反対側の頬は白い。奏よりも年上には見えない幼い顔立ちに、くっきりとした二重の目。柔らかそうな細い髪は、触ると猫の毛並みのようだった。

「奏?」
「……もう一回」

 黙り込んだ奏を訝るように覗き込んできた彼に、奏は再び右手を振り上げた。


* * *



「ごめんね、言うべきこととかもっとたくさんあるんだろうけど、ごめん、言わせて。――俺、今回ばかりは心底納得がいかない」

 真横で頬を二回も平手で殴られたナガトは、すっかり赤くなった左頬を僅かに腫らせていた。一人だけ菓子を貰い損ねた子どものような顔をしてラグの上に胡坐を掻き、ぶつぶつと文句を垂れ流している。そんな状態に追いやった奏はなんとも言えない表情でソファに膝を抱えて座り、貝のように口を閉ざしていた。
 記憶にある家とは違い、ここはマンションの一室だった。どうやらあれから二人でルームシェアを始めたらしい。それなりにいい部屋だから、社会人になった奏はなかなかの高給取りなのかもしれないなと、アカギはそんなことを思った。
 目を真っ赤に充血させた穂香が、四人分の茶を淹れてリビングに戻ってくる。アカギとナガトにはコーヒー、奏には紅茶、自分にはカフェオレを用意したらしい。
 ローテーブルにそれぞれのカップを置いたあと、穂香はどこに座るかしばらく逡巡したようだった。一度アカギの隣に目をやり、結局奏の隣に腰を落ち着ける。

「一年半だよ、一年半。普通さぁ、ほのちゃんみたいな反応しない? するよね? だって一年半ぶりだよ? それがなに、なんでビンタ。一回目はまだいいよ、まだ。なんで二回? 今回俺なんか悪いことした? してないよね?」

 茶と一緒に穂香が持ってきた保冷剤を頬に押し当てながら、ナガトが不満を漏らす。ぐだぐだ言うなと怒鳴りつけるかと思ったが、予想に反して奏は黙りこくったままだった。どうにも調子がおかしいが、再会を楽しみにしていた分だけ余計に機嫌を損ねたナガトはそれに気づいていないらしい。
 すぐさま奏にどうしてなんでと質問攻めにされるかと思っていたのに、彼女は抱えた膝に顎を乗せてカップを齧るだけだった。

「あの……、アカギさん達は、どうしてここに?」

 つい先ほどまで濡れていた瞳が、まっすぐにこちらを見据える。あの唇が胸元に染み込むように吐いた言葉は、すべて頭の中に刻まれていた。その隣で二回も全力で殴られていたナガトには、さしものアカギも同情を禁じ得ない。
 かつては奏の役目だったろう質問を投げかけた穂香に、アカギも慣れない説明役を買って出るより他になかった。

「予後調査が決定してな。この地域はヒュウガ隊が担当することに決まった。――これからも定期的に空渡することになる」

 途端に華やぐ穂香の顔とは裏腹に、奏は怯えるように身体を竦ませる。涙ぐみながら「これからも会えるんですか」と問う穂香に「……まあ」と歯切れの悪い返事をすれば、彼女は途端に表情を曇らせた。だが、そう返事するしかすべはない。
 ナガトは相変わらずむくれているし、奏も奏で表情を消したまま紅茶の水面を睨みつけている。


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