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「でも、これくらい大したことじゃ……」
「女の身体に傷つけたんだ、大したことだろうが。それも場所が、」

 アカギの目が一瞬穂香の胸元を見て、すぐに逸らされる。
 気まずそうな、苦しそうな。激しい自己嫌悪に囚われているかのようなその様子に、穂香の涙が止まった。
 まさかとは思うが、彼が目を合わせてくれない理由はそれだろうか。彼は優しい。だから、穂香に傷を残してしまったことを悔い、罪悪感を感じているのだろうか。
 だとしたら、そんなものは無用の心配だ。穂香にとって、この傷は他のなによりもお守りになる。

「……傷があったら、アカギさんは気になりますか?」
「は!?」
「あっ、い、いえ! 違うんです、変な意味じゃなくて! そういう意味じゃ、なくてっ」

 素っ頓狂な声を返されて、自分が言った言葉に愕然とした。そんなつもりはなかった。含みを持たせたつもりなどない。必死で弁解する声が、羞恥に襲われて消えていく。あまりの恥ずかしさに、今すぐこの場から逃げ出したかった。
 深く長い溜息を吐いたアカギが、がしがしと己の頭を掻き乱した。その様子に、またなにか機嫌を損ねるようなことを言っただろうかと不安になる。

「あ、あの、」
「喋んな」
「ごめんなさ、」
「謝んな」
「え、えと……」
「もう黙れ」

 なにを言っても冷たく返され、耐え切れなくなってまた俯いた。
 足元に、真っ白な雪が積もっている。
 その色に、なにも感じなかったと言えば嘘になる。けれどもう、この色を恐れる必要はない。白い花を見ても、今まで通りその美しさを愛でることができる。もう、怖くない。そんな日常を取り戻してくれたのは、彼らだ。
 アカギの溜息がより大きくなった。びくりとした穂香の耳に、ぶっきらぼうな声が届く。

「……嫌なら逃げろ」

 その意味を理解する間もなく、呼吸が止まった。
 頬に硬い布地の感触が触れる。押しつけられた胸の奥で少し早い心音が聞こえてきたそのとき、何度流しても枯れることのない涙が溢れた。
 抱き締められている。大きな逞しい手が、穂香の背中に触れている。白く染まった吐息が、すぐそこにある。
 これは夢だろうか。目の前に白の植物はいないし、感染者もいない。なに一つ危険はない。それなのに、アカギは穂香の身体を掻き抱く。
 その意味を、都合よく解釈してもいいのだろうか。

「逃げねェのか」

 自惚れるぞ、と彼は言った。彼なりの軽口だったのだろう。それに気がついたのは、もう随分とあとになってからの話だ。
 「自惚れてください」私も、自惚れたいから。震える声は、きちんと言葉になっていただろうか。広い背中に腕を回す。触れることが許された。その事実に胸が締め付けられた。
 誰もいない展望台で、穂香はアカギの肩越しに星空を見上げた。これだけの夜景を眼下に広げておきながら、澄んだ冬空には宝石のように輝く星が瞬いている。
 ――あのときも、こんな夜だった。
 アカギと初めて出会ったのも、夜だった。星など見る余裕もなかったけれど、雲一つない晴れた夜の日だった。そう思った瞬間、堪えていた嗚咽が零れた。

「穂香」

 最初は、「赤坂」だった。
 ――郁ちゃんのおかげだね。
 高校に乗り込んできたアカギは、郁の前で何度も穂香を「赤坂」と呼び、周囲の目を考えろといきり立つ郁に散々怒鳴られた。自棄のように「穂香」と呼んだあの日以来、アカギはずっと名前で呼んでくれる。
 この声に呼ばれたから、目が覚めた。
 この声が必死に呼んでくれたから、信じられた。
 どれほど怖くても、不安でも、絶対に大丈夫だと信じていた。そしてちゃんと、彼は約束を守ってくれたのだ。彼は間違いなく、ヒーローだった。

「もう泣くな」

 より強く抱き締められ、「ごめんなさい」と言う声が震えた。すぐさま「謝んな」と返されて、ひくりと喉が鳴る。
 きっと今の自分は情けない顔をしているだろうに、アカギは僅かに身体を離して穂香を見下ろしてきた。
 やっと、目が合う。

「すきです」

 彼の瞳に自分が映っているのを見た途端、口が勝手に動いていた。ああどうしよう、言ってしまった。そう思うけれど、不思議と怖くない。
 告げた瞬間にアカギは息を飲んだが、嫌そうな顔はしなかった。もうそれだけで十分だ。抱き締めてくれるこの腕があるだけで、それだけで満足だ。
 それなのに、アカギは掠れた声で囁いてくる。

「いいか。……嫌なら、殴れ」

 耳に触れた指先も、頬に滑った手のひらも、触れた唇も、すべてが愛おしい。
 吐き出した息が、白く染まる。
 その向こうに、彼がいた。

「もう泣くな。また必ず、会いに来るから」

 掠れた声が、強く囁く。きつく掻き抱かれ、溢れる想いが涙となって零れていった。
 約束だと、彼は言う。だったらもう、なにも怖くない。だって彼が「必ず」と言った。約束だと。
 だから、これはきっと最後なんかじゃない。
 彼はきっと、約束を守ってくれるだろうから。



 果てなき想いの欠片よ、空を飛べ。
 ――たとえどこにいたとしても、彼のもとへ届くように。




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