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 検査をしても異常はないという。ただ、強く頭を打ったせいで記憶の混乱が起きていると医師は行った。
 ――そう思っていた一昨日、見知らぬ男が二人、穂香の病室へと現れた。
 一人はアイドル風の優男だ。へらへらと笑いながら、訳の分からないことを言っていた。もう一人は、目つきの悪い無口な男だった。どちらにも見覚えなどないにもかかわらず、彼らは穂香のことはもちろん、奏のことも知っているような口ぶりだった。
 挙句、穂香が彼らを「ナガト」と「アカギ」と呼んだ。話に挙がっていたあの名前だ。ただの妄想だと思っていた人物が目の前に存在する奇妙さに、ぞっとした。

『ひっどいな、ほんとに俺のこと忘れちゃった?』

 柔らかそうな猫っ毛が、苦笑とともに目元にかかっていた。その泣きぼくろにどこか懐かしいものを感じたが、どう考えても彼に見覚えはない。
 さっさと出て行けと言った瞬間「きっつ」と傷ついたように笑った顔に、そんな必要などまったくあるはずもないのに激しい罪悪感を覚えた。
 掻き消すように不満を漏らせば、普段はおとなしい穂香に食ってかかられ、挙句「顔も見たくない」と来た。

 あんなことは初めてだった。
 これをケンカと呼ぶのなら、赤坂家始まって以来、初めての姉妹喧嘩だ。翌日、穂香の方から謝ってきて仲直りの形を取ったが、それが形ばかりの仲直りであることには奏も気づいている。二人きりになるとぎこちない空気が漂うし、意図的に会話を避けようとする節もあった。
 昨日はその空気に耐えられず早々に退散したが、今日はそうもいかない。あの男達は、「明後日また来る」とふざけたことを言っていた。
 すなわち今日だ。あんな得体の知れない奴らに、みすみす穂香を渡すわけにはいかない。なにをされるか、分かったものじゃないのだ。
 どうしてここまで腹が立つのか、奏自身よく分からなかった。それでもなぜか、あの傷ついたような笑顔が頭から離れない。
 もやもやとしたものを抱えたまま、奏は穂香の病室で彼らが来るのを待っていた。面会時間終了ギリギリになっても彼らは姿を見せなかったため、個室であるのをいいことに看護師の目を盗んで病室に残り続けていた。病室にトイレがついていて助かったと思う。
 穂香がよそゆきの服を着ていることが気になったが、ここで口うるさく言ってケンカしたくなかった。

 そして、夜の九時を過ぎた頃。
 こつりと、窓の方から音が聞こえた。最初は気のせいかと思ったが、こつり、こつり、音は一定の間隔で続く。
 虫でも当たっているのだろうか。奏がそう判断して読みかけの小説に目を落としたのと裏腹に、ベッドの上で編み物をしていた穂香が目を輝かせてカーテンを開けに走った。「ほの?」驚いて目を丸くさせた奏は、窓の外を見てさらに仰天するはめになる。

「は!? ちょっ、え、ここ四階……!」

 窓の向こうに、あの男達がいた。
 ここは四階だ。なにか足場になりそうな木々もない。それなのにどうして、彼らは平然と窓の外に立っていられるのだろう。奏が止めるのも聞かずに、穂香が窓を開けた。重たい窓が隙間を生み、びゅう、と冷たい風がカーテンを弄ぶ。
 言葉を失う奏をちらと見て、優男の方――ナガトといったか――が困ったようにはにかんだ。

「こんばんは」
「……あんたら、何者」
「一応、軍人」

 ナガトを見て、穂香が嬉しそうに涙ぐむのが理解できない。アカギを見る目が切なげに歪むのも、けれどその瞳の奥に熱を滲ませているのも、全部。
 「えっと、」とナガトが口籠り、開きっぱなしの窓を親指で示した。

「ここじゃちょっと話せないから、とりあえずついてきてくれる?」
「嫌や。どこ連れて行く気なん」
「うん、ちょっとそこまで。……でもほんと懐かしいな。出会った頃は、こんな感じだった」
「はあ? 訳分からんこと言うな!」

 夜の病院だということを途中で思い出して小声で怒鳴ったが、ナガトは軽く肩を竦めただけで、ダメージなど食らってもいないようだった。
 とにかく、こんな男の提案に従うわけにはいかない。いざとなれば大声を出して人を呼ぼう。そう思っていたのに、緊張した面持ちの穂香がすでにアカギに抱えられていた。
 俯く彼女は、恐怖に怯えている様子はない。憂いに零れた溜息は、期待と不安に震えていた。
 ――どうして、そんな顔。
 アカギが穂香を抱えたまま、窓枠に足をかける。まさか、そんな。彼らがその窓の向こうから来たことも忘れて、奏は悲鳴を上げた。

「ほのっ!」

 それも虚しく、穂香の姿が夜の闇に消える。慌てて窓から身を乗り出して下を覗き込んだが、そこにはなにも見えない。
 最悪だ。言葉を失う奏の腰に、するりと腕が回された。反射的に叫ぼうとした口を塞がれ、耳元で「ここ病院」と囁かれて、咄嗟に悲鳴を呑み込んだのが敗因だ。
 あっという間に抱え上げられ、奏の身体は窓の外へと連れ出された。足の裏が空を蹴る。びゅうびゅうと冷たい風になぶられて、がくんと一度急降下したのち、なぜか身体が急浮上した。

「きゃああっ、なに、なにこれ!? はあ!?」

 夜の闇の中、白い翼が頭上に広がっている。ハンググライダーのようなそれを広げ、ナガトが「懐かしいね」とどこか楽しそうに笑った。



 飛行中も絶え間なく吠えまくり、彼らの目的地に辿り着く頃にはすっかり奏の声は枯れかけていた。地面に足がついた途端、大きくナガトから距離を取って思いつく限りの言葉で罵倒する。
 誘拐犯か、ただの変質者か。どちらにせよろくな相手じゃない。なにがあっても穂香は守らなければならない。なのに、奏の決意を無視して、穂香は自分から彼らに接近していく。
 どういうことだ。吠え立てる奏を責めるような目がつらい。奏の知る穂香なら、警戒して近寄らないはずの相手だろうに。


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