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* * *



 嫌な汗が額を流れていく。右手にラケットをしっかりと握り締めたまま、奏は絶望にも似た感情のど真ん中に立たされていた。
 すうすうと寝息を立てて、気持ちよさそうに寝ている両親は、どこから見ても平和そのものだ。「嘘やろ……」異常な平和に、声が震える。
 庭の不審者を発見して、奏は両親の寝室に飛び込んできた。外の不審者に気づかれないように、けれどできるだけ大きな声で、寝ている両親に呼びかけながら揺さぶった。
 どんなに熟睡していても、起きるはずだった。二人とも寝汚いわけではなく、普段はちょっとした物音で目が覚めてしまうほどに眠りが浅い。
 それなのに、どれだけ乱暴に揺り動かしても二人は目覚めない。すやすやと、心地よさそうに眠り続けている。
 なにがどうなっているのか分からない。パニックになりかけているのを、僅かな理性がぎりぎりのところで押しとどめる。

 とにかく、警察に連絡しなくては――

 こんなときに限って、寝室の子機は充電が切れている。――だからいっつも充電しとけって言ったやろ! 省エネと言って、充電が切れてからコンセントを差し込む両親の癖を今は恨んだ。
 リビングまで戻って親機から電話をかける。ひゃくとうばん。初めてかけるその番号に、手足が震えた。
 いち、いち、ぜ――

「コんばンハ」

 かちゃん。
 不安定な音程で告げられた挨拶。背後から伸ばされてきた腕によって、コールする前に受話器が下ろされる。受話器を耳元に当てていた仕草のまま、奏は硬直した。なにも持っていないのにその体勢でいることは、ひどく滑稽だろう。
 どこか拙い日本語からするに、外国人だろうか。妙に冷静に考えているのは、恐怖と混乱が何周も回った結果だ。

「チョット、お話イい?」
「きゃあああああああああああああ!」

 とんっと肩に手が押かれた段階で、恐怖が理性を上回った。喉の奥が焼け切れそうな勢いで悲鳴を上げ、闇雲にラケットを振り回す。
 逃げなきゃ。――逃がさなきゃ。
 声からして、相手は男だ。このまま力技で応戦したって、いつかは負ける。その前に、なんとかしてこの男から逃げなければ。
 突然の反撃に驚いた男から距離を取り、できるだけ物を倒しながら二階を目指す。本当は、このまま玄関から逃げた方がいいに決まっている。でも、穂香を先に逃がさないと――そんな使命感が奏の足を動かした。
 男が慌てて追いかけてくる様子はない。ゆっくりと迫ってくる。そのことが余計に恐怖を煽った。
 このまま行けば、あの男を部屋に案内することになる。そう気がついたときには、もうすでに扉の前にいた。ここでぐずぐずしていたって、どうせすぐに気づかれる。
 なら、男が来る前に窓から逃げ出せばいい。
 腹を括った瞬間、扉の向こうから掠れた悲鳴が鼓膜を突いた。

「ほのっ!?」

 ベッドの隅に追いやられ、声を上げる余裕もなく泣きじゃくる妹の姿を見て、奏の中でなにかが切れた。
 入り口近くに置いてあったコンポを持ち上げる。こんなにも軽かっただろうか。ぶん、と勢いをつけてそれを振り上げ、穂香に迫っていた男に襲いかかった。
 振り下ろされたコンポを避けた男が、ひゅっと息を呑む。こうして向き合ってみると、かなりの長身だ。肩幅もしっかりしていて、まるで軍人のように鍛えられている。
 恐怖が理性に勝り、怒りが恐怖に勝った。怯える穂香を背に庇うようにして回り込み、男との間合いを取る。
 なにか話しかけてきたようだったが、やはり外国人なのか、その言葉は理解できるものではなかった。――理解する気もなかったが。
 せめてこっちの一人は片づけてやる。半ば殺すつもりで振り上げたコンポを屈強な男はあっさりとかわし、奏の腕を捻り上げて武器を奪った。背後で穂香が悲鳴を上げる。
 痛みに顔を歪めた瞬間、男の手がゆるむ。
 チャンスとばかりに懐に踏み込んで、逞しい腕に噛みついてやった。ぎゃっと驚いて声を上げた男に、容赦なく犬歯を食い込ませる。さすがに効果があったのか、男は奏をふりほどきにかかった。
 意地でも離さん。そう誓った奏の喉仏に、一瞬衝撃が走る。あまりの苦しさに顎の力がゆるんだ。
 そして、一気に背後から羽交い締めされる形になり、手も口も使い物にならなくなる。

「はいハーい。ストップ。……っと、調整ムずかシイな、この言語。ア、あ、あー……こんなもんかな?」

 ぱちん。そんな音と共に急に電気がつけられて、急な明るさの変化に目が眩んだ。相手も同じだったらまだ逃げ道はあったものの、奏を羽交い締めにする男には、少しも力を抜く様子はない。
 新たな男の侵入に、穂香は気を失いそうだった。あの男は、さっき一階で奏と遭遇した男だ。顔を隠そうともしていないことから、「始末」されるのだと思い当たる。
 ぞっとして全身に鳥肌が立った。忘れかけていた恐怖が全速力で戻ってくる。

「――こちらG-r3e、濃厚接触者発見。感染、寄生の疑いあり。ナガト三尉、アカギ三尉の二名で調査にあたる」

 随分流暢になった日本語で、男は耳に手を当ててそんなことを言っていた。
 濃厚接触者? 感染? 寄生? 調査?
 一度に聞かされては混乱しか生まない言葉達に、奏と穂香はさらに身を震わせる。
 どうやら通信していたらしい男は、姉妹を交互に見て人好きのする笑みを浮かべた。

「そういうわけだから、協力してね」


 ――どういうわけだ。



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