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しかし数メートル進んだところで、ハインケルの身体はあっさりと地面に叩きつけられた。背中から思い切り突進され、男が重なるように上からのしかかってくる。肺が潰れそうな圧迫感に、濁った悲鳴が唇を割った。鼻先を湿った土の匂いが掠める。目の前で緑の小さな草が揺れていた。このプレートでは雑草と呼ばれるものだ。
後ろ手に拘束され、地面に俯せに押し付けられたまま、ハインケルはミーティアの心配に満ちた声を聞いた。逃げられないと分かっているのに、それでももがかずにはいられない。捕らえられた虫のように抵抗を続けていると、凄まじい衝撃が肩に走り、自分の中からありえない音を聞いた。
「あああああああああっ!!」
痛い。熱い、痛い。左腕に力が入らない。それどころか、だらりと力なく地面に落ちて動かない。肩を外されたのだ。口の中に入り込んだ砂利を噛み締めながら、苛烈な痛みに呻く。
しかしそれもすぐに遮られた。後頭部に硬く鋭い感触が押し付けられ、悲鳴を地面が吸い取っていく。ぐりぐりとハインケルの頭を踏みつける足はドルニエのものだ。侮蔑を含んだ笑声を浴びせられ、土に汚れた顔を爪先が掬った。
「やっだ、汚い顔。ま、でも、兄さんにはお似合いなんじゃない?」
「や、やめ、おねが、やめて……!」
「大人しくしといてね〜。暴れて手元狂ったら、ふっとい血管ぐっちゃぐっちゃにしちゃうかも〜」
「ひっ……!」
注射器の針が、嬲るように皮膚をなぞっていく。
「やめなさい! なにをするつもり!?」
「オバサンは黙っててって言ったでしょー? あんたも肩抜かれたい? いいから大人しく見てろっつってんのよ!」
苛立ちを隠さないまま吐き捨て、ドルニエは躊躇いなく針をハインケルの首筋に突き立てた。ちくりとした痛みと、薬液が注入されていく独特の圧迫感に怖気立つ。「あ……、や、」ガクガクと震える全身は、細やかな抵抗一つさせてくれない。
空になった注射器をケースの中に無造作に放り込み、ドルニエは涙や涎、土でどろどろになったハインケルの頬に優しく触れてきた。穏やかな微笑みは、それだけ見れば天使のようだ。鮮やかな金髪が光をきらきらと反射させている。
「ねえ兄さん。あたしね、あんたのコト、大っ嫌い」
乱暴に頬を張られた。もうどこが痛むのか分からない。嗚咽を零した次の瞬間、全身が震えるほどの大きな拍動にハインケルは瞠目した。
「はっ、あ、ぐぁっ!」
「ハインケル博士? どうなさったの、博士!」
熱い。熱くて、痛くて、苦しい。
どくどくと脈打つ心臓は不規則な速さで拍を刻み、焼け付くような熱が首から全身へと走っていく。血管の中をムカデが高速で這いずり回っているような感覚に、外れた肩を庇うこともせずにその場をのたうった。頭が割れそうだ。内側からなにかに食い破られるような恐怖と苦痛に襲われ、獣じみた咆哮を上げて転げ回る。地面を掻く指先が土を抉る。爪の間に土が入り、閉塞感がじわじわと侵食してくる。眼球がひっくり返るようだ。四肢が細切れに千切れそうで、骨が軋む音を直接聞いた。筋肉が無理やり断絶される。
どこもかしこも痛くて、苦しくて、ハインケルは死を覚悟した。ああ、死ぬんだなと、痛みに犯された頭でそんなことを思った。
悲鳴を上げすぎたせいか、喉からは血の味が広がった。吐き出す声が低くなる。
「ハインケル博士……?」
声が遠い。
肩の痛みが再び強くなっていった。どうやら、全身の痛みが引き始めたらしい。ずくずくという頭痛はまだ残っていたが、身体が細切れになりそうな激痛は次第になくなっていった。荒い息を吐きながら、ハインケルは涙を滲ませた瞳でドルニエを見上げた。
膝をつき、なんとか上体を起こす。ドルニエの笑みが、近くにあった。
「ハァーイ。お久しぶり、おにーさま。……あーら、もしかして背ぇ伸びた?」
なにを言っているのだろう。
眉間にしわを刻んだ途端、刺すような頭痛が再びハインケルを襲う。庇うように手で押さえた拍子に、強烈な違和感が込み上げてきた。記憶が霞む。なにかがおかしい。恐る恐る右手を下ろし、土で汚れたそれを見た。
――うそ。
限界まで瞠った瞳に映り込んだのは子供の小さな手のひらではなく、誰が見ても大人の男のものだった。自分の意思通りに開閉する手は、まぎれもなくハインケルのものに違いない。
どういうことだろう。訳も分からずドルニエに泣きつきかけ、ものの数秒で記憶にかかっていた靄が晴れた。背後からスツーカのけたたましい鳴き声が聞こえたからだ。今までは言葉として聞こえていたそれは、もうただの鳴き声にしか聞こえない。
――ああ、そうか。そうだ、「だから」だ。
上空を逃げていたところを撃たれたのか、男の手に捕らえられたスツーカの翼からは血が滴り落ちていた。ごめんね、痛いだろう。ごめん、僕のせいで。何度謝っても、きっとスツーカには届かない。
ミーティアが唖然としてこちらを見つめている。彼女はどこまで「ハインケル」のことを知っていたのだろうか。
外された左肩を庇いながらよろめくように立ち上がれば、周りの男達が一斉にハインケルを取り囲む。どうせ逃げられないのだから、もう逃げはしない。これ以上余計な痛みを与えられるのはまっぴらごめんだ。
なんとか自力で立ってはみたが、前屈みでしか身体を支えきれなかった。荒い呼吸が前髪を揺らす。
肩で息をしながら、ハインケルはドルニエを見下ろして言った。
「……渡さない。このデータは、君には渡せない」
「急に強気になっちゃって、どーしたわけ? 気まで大きくなっちゃった? やだ、ウザイからやめてよね。渡すとか渡さないとか、そーゆーハナシじゃないの。いーい? あんたの意思なんざこれっぽっちも関係ないの。兄さんのデータをもらったあとは、ぜーんぶ焼いちゃってそれでおしまい。あたしも大手を振って国に帰れるってワケ。お分かり?」
もう、すべてを思い出した。
眠る記憶が、目を覚ます。
* * *
奏の住む町からもそう遠くないこの山は、小学生の頃に遠足でも登ったことがある地元民にはお馴染みの場所だ。ちょっとしたハイキングにはちょうどよく、舗装された道を進めば木漏れ日が心地よく降り注ぐ、そんなところだった。だのに一人で分け入った馴染みの山は、どういうわけかそのまま呑み込まれてしまいそうなほどの不安を煽ってくる。
風が吹けば木々が揺れ、がさがさと葉擦れの音が嘲笑のように降ってきた。そのたびに身体が竦む。跳ね上がる心臓が恐怖と不安を訴えるが、奏はそのことに気づいていて無視をした。足を止めるわけにはいかない。ここで立ち止まってしまえば最後、もう一歩も動けなくなるだろうことは想像がついた。