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「ほのちゃん、思い出してごらん。あのこわーいお兄さん、なんて言ってた?」
「……え?」

 顔をそっと上げさせて、悪戯っぽく笑ってみせる。ちらりとアカギを見やれば、なにを言うんだと怪訝そうに睨まれた。

「『なにがなんでも守ってやる』――そう言われたでしょ? あいつのアレ、本心だから。大方、さっきの『自分のことしか考えてねェだろ』も、『俺のことも忘れんな。必ず守ってやるって約束しただろうが!』的な意味だと思うよ」
「勝手なこと言うんじゃねェよ! 違うわボケ!!」
「ええー? じゃあ、周り見ろってどーゆー意味なんですかぁー。どーゆーつもりで言ったんですかぁー。ほのちゃん守るのに必死で駆けずり回ってたの誰なんですかぁー」
「ッ、ナガトぉおおおおおおおお!!」
「あーもう、るっさい! 響くんだから静かにしろよ!!」

 いつもの調子で怒鳴り合えば、泣きじゃくっていた穂香の目から涙が引っ込んだ。そうだ、それでいい。きょとんとしたまま見上げてくる穂香に、ナガトは一つ微笑みかける。小さな頭を優しく撫でて、次に向き合うのは現実だ。
 艦内に表示されているモニターには、相変わらず赤と白が明滅していた。さあ、どう切り抜ける。せめてあの子が来る前に、なんとかしなければ。そう思うのに策が浮かばない。
 テールベルト空軍特殊飛行部は、選りすぐりのエリートだ。だのにこのざまか。
 目を閉じれば、雲の上に広がる青が浮かんだ。空を切り裂く深緑の機体。音速で青の中を駆ける、戦うための翼。この艦にはあの翼がない。あれさえあれば。あの機体さえあれば、あっという間にこんな化け物共を駆逐してみせるのに。
 翼がなければ、なにもできないのか。

 白に侵される。
 微塵の慈悲も見せず呑まれ、内側から狂わされる。
 だから、この手は引き金を引く。
 緑を取り戻すために。
 守るために。
 ――そのために、種の弾丸を撒き散らす。

 だからどうか、無事でいて。
 信じてもいない神に、そんなことを祈った。


* * *



 緑の風が吹く。
 優しい、尊い風が。
 この手から生み出されるのは、希望の色。
 この血から生み出されるのは、未来の色。
 この声から生み出されるのは、嘆きの歌。

 魔法なんてないの。綺麗な綺麗な希望なんて、どこにもないの。
 でも、どうか、忘れないで。
 ――ねえ、お願い。
 忘れないで。
 
 翼が抱くのは、白い花。
 愛らしく、けれども毒を宿した、白い花。

 再び来たる幸福を取り戻す。
 そのために、翼を得た人達がいることを、どうか、忘れないで。


* * *



 冷えた空気が肌を刺す。
 優しく吹く風が、街路樹の緑を揺らした。
 研究所から一歩外に出ただけで、こんなにも心臓が早鐘を打つ。今いる場所に、身を守る囲いなどない。脆い盾すら与えられず、剥き身の身体を危険に晒しているようなものだ。それが堪らなく怖い。
 一刻も早く頑丈で滅菌された建物の中に籠もりたいのに、ミーティアはかかってきたコールに応答してしまった。呆れた声がハインケルの鼓膜を揺さぶる。「馬鹿でしょう、アナタ」溜息混じりに吐き出された言葉は自分に向けられたものではないのに、それでも身が竦んだ。
 一体なにが起きている。――そんなこと、考えるまでもない。恐ろしいことが起きている。それだけ分かれば十分だ。
 足元に咲く名も知らない花は、こんなにも綺麗なのに。雑草一本すら、ちゃんと緑を湛えている。樹の表皮は茶色で、枝についた葉には緑や黄、赤など、色がある。
 ――こんなにも、美しいのに。
 スツーカを胸に抱き、ハインケルはぼさぼさの前髪をそうっと掻き分け、空を見上げた。薄雲を掃いた青空が頭上に広がっている。そこに浮かぶ雲の白さは、どうしてこうも美しいと感じるのだろう。植物の白は、あんなにも恐ろしいのに。
 どれほどそうしていただろうか。いつの間にか通話を終えていたミーティアが、庇うようにハインケルの前に立った。「どうしたんですか?」そう訊ねようとしたのに、硬質な声が被さってきて最後まで言葉にならない。

「ハインケル博士、あちら、お知り合いかしら?」
「え? ……知り合い?」

 ミーティアの背からひょいと顔を覗かせて、絶句した。思考が錆びつき、機能を停止させた。心臓が送り出す血液量が爆発し、全身を痺れが駆け抜ける。呼吸が乱れ、後ずさった踵が研究所の壁にぶち当たった。逃げ道はどこだ。どこにある。舌が喉の奥に引っ込み、情けない悲鳴が僅かに漏れ出た。
 青空を背負い、金の髪を輝かせた二十歳ほどの小柄な女性が、白衣を風に靡かせていた。愛らしい顔立ちには、それでいて強気な笑みが浮かんでいる。その背後に、屈強そうな男の影が三つほどついてきていた。
 ――こちらを見据える透き通った青い瞳は、ハインケルのものとよく似ている。

「ハァーイ、おにーさま。お元気してた? 連絡一つくれないんだもの、あたしちょーう寂しかったぁ」
「あ……、に、逃げっ……!」
「やぁだひっどーい。逃げなくてもいいじゃない。キョーダイの再会を喜びましょ? ねっ?」
「みっ、ミーティアさ、早くっ!!」

 震える手でミーティアの手を掴み、ハインケルはその場を駆け出した。聡明なミーティアであれば、これが異常な事態であるとすぐに気づいただろう。余計な口を挟むことなく駆け出すその足に、心の底から感謝した。
 甘い声が耳にこびりつく。「ちょっとぉ、なんで逃げんの?」響く笑声はただの嘲笑だ。全身を絡め取る怖気に、もつれそうになる足を必死に動かして逆らった。
 研究所の中に滑り込んで、そして扉にロックさえかければ。そうすれば、しばらくは耐えられる。
 そんな思いを、一発の銃声が踏み躙る。

「再会を喜びましょうって言ってんでしょ? 大人しくしなさいよ、臆病者のハインケルは・か・せ?」

 「ま、あんたに会っても嬉しくもなんともないけどねー」あっけらかんとした物言いには、嘲りと侮蔑だけが込められている。
 顔の横を掠めていった弾丸が、扉の脇に取りつけられていた電子ロックキーを撃ち抜いていた。煙が昇る。白い、煙が。
 近づく足音に、涙がせり上がる。瞳を潤す己の体液は、きっとひどく塩辛い。


 どれほど嘆いたところで、動き始めた歯車は止まらない。


【16話*end】


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