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抱えた頭の奥がずくずくと痛んだ。考えなければいけないことは山ほどあるのに、思考がまとまらない。こんなときに、艦長がいてくれたら。誰か、経験を積んだ先人が一人でもいてくれたら。いつまでも甘えていられる年齢ではないけれど、切実にそう思った。
「……ごめん、ほのちゃん。八つ当たりした。ごめんね、怖がらせたね」
なんとか気を落ち着けて謝れば、穂香は泣きながら首を振って「私の方こそすみません」と謝ってきた。気弱な彼女なりの、精一杯の励ましの台詞を、自分は怒声で跳ねのけたのだ。相当怖かっただろう。非はこちらにあるというのに、彼女の方に謝られては堪らない。
アカギが彼女の薄い肩を抱き締めでもして慰めてくれればまだいいものを、仏頂面のこの男にそんな気の利いたことは望めるわけもなかった。
艦内を重苦しい空気が支配する。時折聞こえるミシッという不吉な音が、否応なく余裕を削り取っていく。
どうすればいい。何度目かの溜息に、痺れを切らしたのはアカギだった。口下手な男が自分から空気を変えるべく口を開くのは、本当に珍しい。
「――お前、たまに他人みてェに話すよな、奏のコト」
ナガトは特に内容を飲み込みもせず、鼻で笑った。よりにもよって、このタイミングで奏の話か。そう思った直後、言葉の意味に気づいて眉根が寄る。
確かに、ナガトも引っかかっていた。穂香は時折、奏に対して姉妹にしては不自然な距離を取る。「あの人」というような呼び方もそうだ。
怯える子兎のような穂香は、真っ赤に充血した目を何度も瞬かせ、そうして小さく頷いた。そこにはどんな意味が含まれているのだろう。推理するよりも先に、震える声が唇を割る。
「……わ、私、あの人の、本当の妹じゃ、ないんです」
だから――。
言葉の続きは震えて消えた。ナガトは、自分の目が大きく見開かれていることを自覚した。眼球を容赦なく外気が舐めていく。驚愕に瞠目しているのはアカギも同じだった。自分から掘り出した話題のくせに、踏んだ瞬間に地雷と気づいて固まっている。
似ていない姉妹だとは思っていたが、まさか、そんな。
アカギはもう使い物にならない。もともと口が回る男ではないのだから、こんな話題を前に上手く切り返せるはずもない。頭の奥に鈍い痛みを覚えながら、ナガトは穂香の隣の椅子を引き、静かに腰を下ろした。震える手をそっと握る。
「詳しく聞いてもいい?」
「八歳の、ときに、……両親が、事故に遭って。車で、高速道路で。私は、後部座席にいて。それで、叔母さんが――、お母さんが、私を引き取ってくれたんです」
聞けば、それはよくある悲劇のようだった。
テールベルトで放送されていた人気ドラマの主人公も、確かそんな生い立ちだった。よく見かける悲劇ではあるけれど、現実に出会ったためしは今までなかった。ドラマの中で、主人公の周りの人物達はどんなふうに声をかけていただろうか。
「私、ずっと、泣いてばかりで……。お姉ちゃんは、いつも傍にいてくれて」
「……奏らしいね」
「お母さんも、お父さんも、すごく、よくしてくれるんです。……申し訳ないくらいに。あの人達は、とても優しいから。急に入ってきた私にも、優しいんです」
ぽたぽたと零れる涙の意味は、どこにあるのだろう。
実の娘ではないとはいえ、穂香と奏に血の繋がりはある。ナガトが見ている限り、両親も含めて新しい家族の仲は良好のように感じられた。なにより奏は、誰が見ても穂香を溺愛している。
それでも穂香は俯き、嘆く。
「いつも気を遣ってくれて、それで、だから私、迷惑かけないようにって、ずっと思ってきたのに……。なのに、こんなことになって……! わたっ、私が、あんな苺、買ったから……! だから、こんなことにっ」
「違ェだろ」
苛立つ声を上げたのはアカギだ。鋭く細められた眼差しといい、低く唸るような声といい、これではまた穂香が怯えてしまいそうだ。
苛立ちを隠さない顔を見て、ナガトはふと思い出した。そうだ、家族の問題にはこの男は人一倍うるさい。別に大きなトラブルを抱えているわけではないけれど、アカギは現在、両親と距離を置いていた。緑防大時代に、そんな話を聞いたことがあった。
そうでなくても義理人情には厚い男だ。口を挟まずにはいられないのだろう。
「え……?」
「変に気ィ遣って、受け入れてねェのお前の方だろ。表面だけイイコ演じて、いつまでも可哀想な自分に酔ってんじゃねェよ。そういうの、すっげェウゼェ。あのバカ女がなんのために無茶してると思ってんだ。お前のためだろうが。いつもいつも、二言目には“妹”の話してんだろ。そんだけ耳塞いでりゃ、聞こえるわけねェわな」
容赦のない物言いだ。案の定穂香は涙を溢れさせたが、ナガトですら慰める言葉が浮かんでこなかった。頬を伝う雫を指で拭ってやって、ただ苦笑する。
この子は一度折れた方がいい。そうして自分の目で見てみない限りは、きっと気づかない。付き合いの浅い他人ですらはっきりと読み取れる深い愛情に、向けられている本人が気づかないだなんて哀れすぎる。
「わた、し……、だって……」
「お前、なんかあったら『私が私が』で、自分のことしか考えてねェだろ。ちったァ周り見ろよ、ガキじゃあるまいし」
本当に不器用な男だ。
頑なになってしまっては、届くものも届かない。顔を覆って泣きじゃくる穂香の頭を胸に抱く。汗ばんだ髪の間に手を差し入れて梳いてやれば、嗚咽が次第に大きくなっていく。そうだね、怖いね。俺も怖いよ。胸中で零した呟きは、きっとアカギにすら届かない。
「……ねえ、ほのちゃん。ぶつけてごらん、そのままのきみを。“気を遣ってもらってる”とかそんなこと、一回忘れて、思ってること素直に全部言ってごらんよ。『自分が』ばっかりでもいいじゃない。奏なら、きっと受け止めてくれるよ。だって、きみのお姉さんなんだから」
――表面だけいい子ぶっているのは、自分も同じだ。ただただ優しい言葉を吐いて抱き締め、あの子の頭もこんな風に小さいのかと思いを巡らせる。けれど、吐き出した言葉に偽りはない。奏ならば、どんな穂香でもきちんと向き合うだろう。
アカギはそんなナガトと穂香を見て、居心地悪そうに顰め面をしていた。泣かせたことを悔いるくらいなら、初めからもっと言葉を選べばいいのに。