霧に隠れる [ 9/9 ]

「平気。大丈夫だよ」

 少女そのものの恰好をした才蔵は、汚れた着物を脱ぎ棄てて頭から水を被った。紫黒の髪は首筋に、白い襦袢はその肌に、隙間なくぴたりと張り付いて華奢な体躯の線を強調していく。
 乱れた襦袢の裾から、闇に浮かぶ白い足が覗いていた。すらりとしていながらも引き締まった筋肉を備えているその足は、野山を駆ける獣のような跳躍力を持っている。純粋にそれを美しいと思った。月明かりに照らされ水浴びをする才蔵は、とても美しかった。
 けれど、その美しい珠のような肌に穢れが散っている。
 首筋に、鎖骨に、胸に、腹に、内腿に。全身くまなく散りばめられた赤に、鎌之助は眉根を寄せた。

「……なに? あんまり見られてると、落ち着かないんだけど」

 ぽってりと腫れた唇は、蠱惑的でさえあった。同じ口元に刻まれた赤黒い痣さえなければ、それは十二分に妖しい魅力であっただろう。なにがあったかなど、想像に難くない。どれほど小柄でも、どれほど華奢でも、霧隠才蔵は忍だった。少女めいたその風貌でさえ、彼は武器にする。得物や技術だけではなく、彼のすべてが忍としての道具だった。
 分かっているからこそ、なにも言えなかった。源二郎に内密に屋敷を出、気づかれないように戻ってきた才蔵は、裏山のため池にて身を清めようとする。それはいつものことだった。毎度毎度、彼は主に知られぬように身体を汚し、そして清める。
 今まで気づいていたが、それでもあえて関わらなかった。今回こうしてついてきてしまったのは、戻って来たときの彼の様子がおかしかったからだ。いつもならば音もなく着地できるはずの屋根が、ぎしりと鳴いた。おぼつかない足取りで裏山に向かう彼が心配になって、ついついあとを追ってしまったのだ。
 当然迷惑そうな顔はされたが、拒否されなかったので今もこうして傍にいる。
 才蔵はしばし逡巡し、襦袢の前だけをくつろげ、己の手で身体を清めていった。美しい足に伝う残滓がなんであるかなど、考えたくもなかった。醜い欲に汚されることと引き換えに手に入れた情報が、一体どれほどの価値を持つのだろう。

「……あのさ、鎌之助。…………したいの?」

「――は?」

 考えに耽っていたせいで、才蔵がなにを言ったのか分からなかった。聞き逃したことを詫びると、彼は乱れた姿のまま、ため息交じりに熟れた唇を割り開く。

「難しい顔でじっと見てるから。そういう気分なのかなって」

 今度はきちんと聞いたつもりだった。しっかりとその言葉は耳に届いた。――だが、なにを言われたのか理解できなかった。

「……は?」

「別にいいけど? なんていうか、ついでだし。一回くらいなら相手してあげてもいいよ」

 それ以上は疲れてるから駄目。ざばざばと水を掻きわけて進んでくるこの男は、なにを言ったのか。申し訳程度に襦袢を掻き合わせてはいるが、濡れたそれはぴたりと張り付いて肌の色を透かしてしまっている。裸体同然のその姿で、才蔵は薄く笑った。
 花が、咲く。
 愛らしい顔立ちに浮かぶ妖艶な微笑が、気がつけば目の前に迫っていた。大きな瞳が、す、と細められ、冷え切った指先が鎌之助の目元を撫でる。髪からはぽたぽたと雫が零れ落ち、鎌之助の肩を濡らした。
 唇が触れあいそうなぎりぎりの位置で、才蔵は忍としての武器を張り付け、甘く息を吐く。

「油断してたらすぐトんじゃうかもしれないから、気をつけなよね。――まあ、女泣かせの鎌之助なら問題ないか」

 するり、と鎖骨を撫でた指が、そのまま腰帯にかけられた。さりげなく襦袢をずらし、薄い肩をさらけ出した才蔵が遊女のように艶めかしく動く。
 ゆっくりと抱き着かれ、耳朶に冷たい唇が触れた。とろりとした声で名が呼ばれ、――それが限界を告げる合図だった。

「才蔵っ!」

「――った!」

 バシン! と小気味のよい音が山中に響く。じわりと熱を帯びた手のひらと、目の前で頬を抑えて俯く才蔵の姿を見て、平手打ったのだと悟る。ちょうど傷口のある側の頬を叩いてしまったと気づいて、後悔が僅かに顔を覗かせた。愛らしい小さな顔は、片側だけ見事に赤く染まっている。
 どういう言葉をかけていいものやら、分からなかった。もとより鎌之助は口数が少ない方だ。気の利いた言葉など、砂粒ほども捻り出てこない。肩に触れようとした手を、思い切り跳ね除けられた。じわり。今度は打たれた手が熱を持つ。
 才蔵は目を合わせないまま、鎌之助から距離を取った。足元がふらつく。

「……から、嫌だったんだ」

「――え?」

「これだから嫌だったんだ! 僕ら忍は、ただの道具であるべきだ! 心なんか、感情なんかいらない! ただ人形みたいに、そうだよ、からくり人形みたいに、主の言うとおり動いてるだけでよかったんだ! なのにっ……なのにあの人は、そんな当たり前のことすらさせてくれない!!」

「才蔵……」

「これくらいなんてことないんだ! 相手が男だろうが女だろうが、犬だろうがあやかしだろうがなんだって平気なんだよ! なんてことないんだよ、平気じゃなきゃ、だめなんだ……!」

 夜更けの静かな山の中では、その声はやけに大きく反響した。身体を震わせるほどの大声は、忍ぶことなどすっかり忘れているようだった。喉の粘膜を痛めてしまいそうなほどの、無茶苦茶な叫びだった。
 普段、感情をあまり表に出さない姿からは考えられない様子に、僅かに瞠目する。襦袢の前をしっかり掻き合わせ、才蔵は俯いたまま獣のように唸った。

「鎌之助も鎌之助だよ! どうして抱かないのさ? 僕がいいって言ったんだ、遠慮なんかすることないでしょ。そっちだって忍なんだし、男だって余裕でしょ? それともなに、汚いとでも言いたいの? そんなの忍なんだから、今更じゃないか。ただの道具なんだから、割り切れよ!! なに……っ、なに普通の人間みたいに、気なんか使ってんのさ!!」

 早口で捲し立てるように投げつけられたそれは、苦無よりも早く鎌之助の胸に突き刺さった。ぜいぜいと肩で息をしながら、才蔵は踵を返す。「……ごめん、ちょっと頭冷やしてくる」よろ、と頼りない足取りで一歩踏み出した彼の肩を、鎌之助は咄嗟に掴んでいた。
 そのまま、目元を腕で覆うようにして引き寄せる。着物が、才蔵の襦袢から水を吸い取っていく。
 なにすんの、と彼は言った。答えなかった。やや苛立った口ぶりで、彼は再び「なにすんのさ」と言った。

「……俺達は、忍だ。源二郎の、道具だ」

 風変わりな主は、忍が自らを道具と言うことに異論を唱えてけして認めようとはしない。主は忍を友と言う。お前達は共に戦う戦友であるのだから、道具などではない――と。心を殺すな、感情を失くすなと、――これは命令だとさえ言った。優しいだけの人間でないことは知っている。その両手は血に濡れ、数多くの命を奪ってきた。
 そんな主は、「だから」と続けた。「だからお前達にも、生きていることを忘れてほしくはないのだ」なにが「だから」なのか分からない。なにを思って主がそう言ったのか、理解することは非常に困難だ。
 なれど主が心を望んだ。見せかけだけでもよかった。感情を表に出す演技をして主に接するだけで、よかったはずだった。最初はそうしていた。彼を主と認め、仕えると誓った最初の頃は。
 それなのに、いつの間にか、それができなくなっていた。
 忍なのに心を殺せない。人の心が奥で息づいている。無機質な人形になりきれない。
 ゆえに、一番心を乱された忍は何度も口にした。「僕ら忍は道具だよ」――と。

「だが、考えてもみろ。……源二郎は、道具を乱雑に扱うか」

 腕を引き剥がそうともがいていた才蔵の動きが、ぴたりと止まった。もともと体格差のある二人だ。逃がす気などなかったが、抵抗されないに越したことはない。
 自分達の主は、箸一膳、茶碗一つに至るまで、大切に扱う人だった。筆も、墨も、紙も、なに一つ粗雑に扱ったことなどない。それが刀や甲冑になれば、なおのことだ。
 どれほど道具と言い張ったところで、主が自分達に対する態度は変わらない。
 引き剥がすために腕を掴んでいた手が、きゅっと縋るように力を込めてきた。目元を覆ったまま、濡れた身体を抱き締める。震えるそれはただの人間だった。道具でもなければ忍でもない、ただの人の子であった。
 どこからか大きな鳥の羽ばたきが聞こえた。天狗だろうか。この山には昔から、血色の天狗は住んでいる。どこからか枝を踏みしめる音が聞こえた。狐だろうか。この山にはここ最近、白銀の天狐がやってくる。
 天狗でも狐でも、なんでもよかった。自分達を傷つける者でさえなければ、どうでもよかった。

「――って、るよ」

 か細い声が、紡ぐ。

「……分かってるよ。源二郎様が、僕らを道具として見てくれないことくらい。……道具だろうがなんだろうが、あの人は大切にしてくれるって、それくらい、分かってるよ」

「――ああ」

「だから、嫌なんだ。平気、なのに……平気だった、はずなのに……帰ってきたら、すごく、……すごく、つらいんだ」

 忍の身で、夢さえ見てしまう。感情が溢れる。
 孤独を嫌い、誰かと共にあることに慣れてしまった。最初は一人だったはずなのに。――それは鎌之助も同じだった。山の中、初めてあったそのとき、二人は互いに独りだった。

「今更、おひさまのあたる道なんて、歩けるわけないのにさ……。なのに、源二郎様に『おかえり』って言われたら、……言われたら、さ、あの人と一緒に、生きていきたく、なるんだよ」

「――ああ」

「僕、忍失格、だよね……? あーもう、ど、しよっか。きっつい、なあ……」

 こんなに苦しい思いをするのなら。こんなに切ない思いをするのなら。いっそ心など捨ててしまいたかった。
 優しい主は、随分と残酷な命令をしてくれた。

「……才蔵、その――」

「いいよ。……いいよ、なにも言わなくて。鎌之助が口下手なの、知ってる。……もう、大丈夫だから。ごめん、そろそろ離して」

 催促するように腕を叩かれ、鎌之助は躊躇いがちに才蔵を解放した。踊るように腕から飛び出した彼は、とんっと軽やかに跳躍し、枝の上に立った。月を見上げ、手を伸ばす。白い襦袢に、雫が月光を弾いて羽衣のように輝いている。まるで天女のようだ。
 大きなまなこが赤く充血していることには気づかないふりをして、鎌之助はただただその立ち姿を見つめていた。彼は自分よりも幾分か小さく華奢で、頼りなささえ感じる風貌ながら、その実力は十勇士内でも上位に位置している忍だ。
 お互いに齢は知らない。けれど、自分よりは年下だろうと推測する。幼い顔立ちに、今はうっすらと優しい微笑が乗せられていた。

「ね、鎌之助」

「……ん?」

「…………あの、さ」

 たっぷりと間を開けて、才蔵は夜霧に溶けた。一瞬のうちに姿が見えなくなる。まさに霧隠れだ。足元を野ねずみが駆け、遠くで犬の遠吠えが聞こえる。天狗の羽音か、それとも狐の歌声か、ざわざわと木々を揺らす音に混じって、聞きなれた声が耳朶に触れた。


「――傍にいてくれて、ありがと」


 自分達は忍で、主の手となり足となり、意のままに動く道具でなければならない。
 けれどその主が風変りなのだ。
 忍とて、常識から外れていても仕方がない。


「……ああ」


 見上げた夜空の月は霧に隠されていたが、それでも、とても美しかった。




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