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どうしよう、


hi

 瞼が重い。頭も、鼻も、喉も、ずきずきと鈍い痛みを与えている。
 起き上がろうとして、身体がいうことを聞かないことに気がついた。ぼんやりとした頭が、徐々に活動を始める。腹部にぬくもりと重みを感じて、隣に頭を向けると、そこにはすうすうと寝息を立てる姉の顔があった。
 どういうことだろう。どうやらあたしは、しっかりと抱き締められて寝ているらしい。枕からは、姉の使っているシャンプーの香りがしている。こんなに至近距離で姉の寝顔を見たのは、何年振りだろう。そもそも、一緒に並んで寝るなんて小学生以来の気がする。
 よく見れば、姉は化粧をしたまま眠っていた。あーあ、肌に悪いのに。マスカラとアイラインが落ちて、目の周りがどろどろだ。眦からこめかみにかけて、黒い線がついているのを見つけてしまった。
 ――泣いたの?
 少しでも身じろげば、姉はぎゅうぎゅうと腕の力を強めてくる。離さないとでも言われているようだった。強く抱き締められて、ずくりと痛む頭の奥の方から、なにかが影をちらつかせていく。あたたかかった。姉の腕の中は、とても、優しかった。
 そうだ。この人は優しい。
 お風呂にも入らず、ばっちりメイクさえ落とさず、一晩中あたしを抱き締めて眠り、泣いてくれるような人なのだ。

「おねえ、ちゃん……」

 声は風邪を引いたときと同じくらい、掠れていた。喉の粘膜がひりついている。それでも、呼ばずにはいられなかった。「……おねえちゃん」片倉栗子という人が姉で嫌な思いをしたことは、今まで数え切れないほどあった。片栗粉なんてふざけたあだ名のくせに、あたしよりなにもかもが優れているくせに、どうしてあたしが欲しいものをすべて横から盗っていくのかと、ずっとずっと心の奥底で妬んでいた。
 ずるいと思う。化粧が崩れて汚い顔をしているのに、それでもあたしより遥かに美人だ。――はるか。その言葉に、きゅっと心臓が竦み上がった。はく、と金魚のように酸素を求める。
 記憶がどんどんと巻き戻されていく。思い出したくないのに、忘れたいものばかりが鮮明に蘇ってくる。遊園地、観覧車、汗ばんだ額、人々の視線、離れていく地面、小さくなる町並み、そして、息の詰まる空気。
 声が、耳の奥で聞こえる。視線を、肌が感じる。心は考えたくないと咽び泣いているのに、どうしてか頭は記憶をビデオのように再生して見せつけてくる。忘れることが、考えないことが罪だとでもいうように。
 いっそこのまま消えてしまいたかった。なにも考えたくなかった。

「も、やだぁっ……」

 誰かボタンを押して。すべてリセットしてよ。


+ + +



 ハルカからメールが入った。「ジャスミンちゃん帰った」たった一言だけ記された本文に、なんとなく、分かったような気がした。買い物に出ていたはずなのに、気がついたらいつの間にか駅についていた。証明写真のボックスについていた鏡には、髪をぼさぼさにして汗だくになっている、ひどい有様の女が映っていた。思わず、これは誰かと聞きたくなった。
 電車が到着したのか、階段から続々と人がやってくる。帰宅ラッシュの時間帯だ。人ごみの中、必死に茉莉花を探した。いつもよりも少しおしゃれして出掛けた妹は、その集団にはいなかった。
 次も、その次も、茉莉花の姿はなかった。見逃したのかと不安になってきたところで、またホームに電車が滑り込んでくる。せかせかと改札に向かう人々の中で、幽鬼のような影が見えた。改札をくぐるのを待たずに駆け寄ったせいで、ぶつかったサラリーマンに舌打ちされた。すみませんの一言すら、口にしている余裕がなかった。

「茉莉花っ!」

 俯いて歩いていた茉莉花は、声をかけて初めてアタシに気がついたようだった。生気を失った瞳は、途端に涙の膜を張った。それだけで十分だった。アタシは神でもなければエスパーでもない。なにがあったかなんて、すべてを把握できるわけがない。でも、想像することは簡単だった。今の彼女がどれだけ痛みを感じないように自分を抑え込んでいるのか、それを察することくらいは、一瞬でできた。


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