言わないで、 [ 8/29 ]

言わないで、


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 リィに殴られた頬が痛い。休むことなく走り続けたせいで、心臓が限界を訴えていた。刺すような痛みが肺を襲い、呼吸には血の味が混じるようになってきた。額を伝う汗が目に入って、よく前が見えない。それでも俺はひたすらに走り続けた。
 人で溢れる広いパーク内で、たった一人の女の子を見つけるのは難しいことに違いない。
 ポケットから鳴り響いた着信音に、そういえばマナーモードにしていなかったことを思い出す。乱れる息をそのままに画面を見ると、そこにはリィからのメールが一通届いていた。

「パーク西側、観覧車付近……?」

 件名もなにもない、本文に記されたたったそれだけの文字にどくりと心臓が跳ねる。
 そこにはきっと、ジャスミンちゃんとタカナシくんがいる。見るからに好青年の男の子から、その彼女を理不尽に奪うのか? 罪悪感はある。この話をすれば、きっと十人中十人が俺を悪者だと言い、タカナシくんとジャスミンちゃんを被害者だと言うだろう。
 もしもジャスミンちゃんが素直に俺の手元に落ちてきてくれたなら、世間は彼女すら批判するだろう。どちらにせよ、あの子にはつらい目に合わせてしまう。
 あの子を泣かせてまで、俺の我を通す価値はあるのか。――きっと、ない。
 分かっているのに、それでも、あの子のもとへ走るのは、ただの我儘でしかなかった。

 ごめん。いくらでも謝るよ。
 けれど、諦めきれない。きっと、しつこい男だって世間は俺を嘲笑するだろう。ストーカーと言われるかもしれない。最低な男だね。自覚はしてるんだ。
 だからこそ、余計に性質が悪いのかな。

 ――欲しいものは、欲しいんだ。

「ッ、あそこか……!」

 夕暮れのこの時間、大観覧車の前は混雑し始めていた。大半がカップルと親子連れだ。長蛇の列を掻き分けて進むわけにもいかない。張り巡らされた整列用のロープを外側から順に辿って、ごった返す列を順番に確かめていく。
 もうすでに、二人は観覧車の中にいるのかもしれない。乗ってしまっているのかもしれない。景色を見て笑いあって、あの子はしあわせな時間を過ごしているのかもしれない。
 でも、間に合えばいい。間に合って、壊してしまえばいい。

「見つけ、たっ! ッ、ジャス――マリカちゃんっ!!」

 気づけ。 
 振り向け。
 届け。

「マリカちゃんっ!」

 今にも観覧車に乗り込みそうな二人組は、間違いなく探し求めていたあの二人だ。男の子の方がどうだったか、正直自信はない。でも女の子のあの後姿は、間違いではないと確信している。
 間違えるはずがない。わざわざ異界にやってきてまで、心がほしいと思った女の子だ。間違えてたまるものか。
 大声で名前を呼んで走る俺に、痛いくらいの視線が突き刺さる。それでも、肝心なあの子の目はまだこちらを向かない。そうでなければ、数多の視線など無意味だった。たとえそれがどんな種類のものであっても、ないのと同じだ。
 もう一度。係員に乗車人数を問われる直前のところで、大声で名前を叫んだ。
 弾かれたように肩が跳ね、黒髪を尻尾のように揺らして振り返った彼女は、信じられないものを見るような目でこちらを見ていた。隣の男の子も似たような表情だ。

「はるか、さん……? え、あ、どうして……?」

「ごめっ、マリカちゃ、俺っ……」

「……あのぉ、お客様、三名様ですか? 他のお客様のご迷惑となりますので、このような場所取りはご遠慮いただきたいのですが」

 恐る恐る声をかけてきた係員に弁解したくとも、息切れがひどい身体ではそう上手くもいかない。ちょっと待ってと言いたくとも、その一言ですら、喉の奥に張り付いて咳に変換されてしまうのだ。どうしようかと思案しているマリカちゃんの隣で、タカナシくんが険しい顔をしている。ああ、なにか勘付いたんだなと、本能的に悟った。

「いえ、この人はちが――」

「すみません、気をつけます。三人でお願いします!」

「えっ!?」

 え、の声は綺麗に三人分重なった。タカナシくんと係員、それからマリカちゃんだ。
 マリカちゃんの手を掴み、俺は強引にロープを跨いで観覧車へと乗り込んだ。係員と、周囲に並んでいた人々の嫌悪の視線が突き刺さる。マリカちゃんの耳は赤く染まっていたが、その手は氷のように冷え切っており、小刻みに震えていた。
 不安定な小さな空間に押し入り、ばたんと扉が閉められる。ガウン。そんな音とともに、密室は動き始めた。徐々に地面から遠ざかっていく。俺の前には、堅い表情をした二人がちょうど一人分の空間を開けて座っている。ごめんね。気まずいにも程がある。これは俺から沈黙を破るべきなんだろう。
 この状況はあまりにも不自然だ。ふと、マリカちゃんを見れば、気の毒なことに彼女は顔色を真っ青にさせてしまっていた。――どうして。君がそんな顔をする必要はないんだよ。

「……ごめんね、いきなり」

 もう十五メートルは上昇しただろうか。口を開いた途端、二人はそれぞれ肩をびくつかせた。程度に差はあれど、似たような反応をする二人に、こんな状況だというのに僅かな嫉妬心が芽生える。
 それどころじゃないはずだ。これよりももっと大きな嫉妬心から、こんなことをしでかしたのに。
 どう足掻いてももう逃げられない。ここは密室だ。この観覧車は一周十八分。二人のもとに飛び込んできてしまった今、なにもないよと言って誤魔化すことは不可能だ。この傲慢で、汚れ切った我儘を吐き出さなくてはいけない。
 この手で壊すのだ。
 ――さあ、澄み切ったガラスに鉄槌を。


+ + +



 嫌な予感がした。
 すべてが崩れ去っていくような、そんな予感が。
 あの人を見た瞬間、悟った。ほとんど直感だった。この人は、優しくて綺麗な大人なんかじゃない。残酷で、汚い大人だ。
 そして、その彼が欲しているのは、隣に座っている茉莉花に他ならない。


+ + +



「……ごめんね、いきなり」

 悠さんに連れ込まれるように乗った観覧車の中は、毒ガスでも蔓延しているかのような息苦しさだった。
 どうして。ねえ、どうして悠さんがここにいるんですか? 直前でかかってきた姉の電話が頭をよぎる。我儘言ってもいいのよ。――ねえ、それは一体どういうこと?
 指先が氷のように冷え切っていく。どうしよう。どうすればいいんだろう。なんでいるの。どうして。分からない。怖い。
 小鳥遊くんの表情も、けして柔らかいとは言えないものになっている。怒っているというよりも、むしろ、なにかを警戒しているような表情だ。不安と緊張から、お腹が痛くなってきた。思わず前屈みになったあたしに、悠さんが優しく声をかけてくる。

「マリカちゃん、大丈夫?」

 声が出ず、頷くしかできなかった。「そっか、よかった」とろりとした声音が、明らかに作られたそれのように聞こえた。

「で、なんなんですか?」

「……そうだね、そろそろ話さなきゃいけないよね。じゃあ、まずは事実から言おうか。俺ね、何度も言ってるけど、リィとは――マリカちゃんのお姉さんとはなんでもないんだ」

 小鳥遊くんの顔がより険しくなる。少しだけ外に目を逸らした悠さんは、どこか自嘲するように笑っている。
 確かに何度も言われていたことだった。姉も悠さん自身も、付き合ってはいないのだと、事あるごとに言ってきた。けれどそんなこと、誰が信じられるだろう? ある日突然、姉が連れてきた知らない男の人。仲が良くて、しばらく一緒に暮らすのだと言って。
 そんな人が彼氏でもなんでもないだなんて、信じられるはずがない。
 今だって信じていない。――でも、今、こんな状況で嘘をつく必要なんて、あるのだろうか?
 いや、だとしても、それが真実だったとしても意味が分からない。姉と付き合っていないなら、どうして悠さんはいきなり姉の家にやって来たのだろう。……どうして、ここに来たのだろう。
 小鳥遊くんが小さく舌打ちした。初めて聞くそれに、驚きと焦りが生まれる。

「でしょうね」

「えっ?」

「……ああ、やっぱりタカナシくんは分かってくれた? もう、気づいちゃったかな」

「ええ。俺もそこまで馬鹿じゃないんで。で? だからなんだってんですか。こんなところにまで乗り込んできて。非常識っすね」

「うん、そうだね。自分がどれだけ常識外れなことしてるかは、自覚してるよ。それでも悪いけど、言わせてもらう」

「ハルカさん!」

 声を荒げた小鳥遊くんの方はちらとも見ずに、悠さんはあたしをまっすぐに見つめてきた。色素の薄い、柔らかい色の瞳に射抜かれる。この人は、人の動きを抑制する魔法でも使っているのだろうか。身体は指先一つ動いてくれないのに、心臓だけが激しく高鳴っている。
 苦しい。溺れているみたいだ。

「マリカちゃん、俺ね、マリカちゃんに会うために、ここに来たんだよ」

「ハルカさんっ! それ以上は言わせない。言わせるかよ」

「今言わなくても、あとで言うよ。俺は、マリカちゃんの家でお世話になってるんだ。どうせ家に帰れば、いくらでも話す時間はある。――でも、これだけ自分勝手なことをやるんだ。だから、タカナシくん、君にも分かっていてほしいんだよ」

 なにやら話が通じているらしい二人を前に、あたしはただおろおろすることしかできない。どういうことなの? 誰か教えて。混乱する頭の中で、性質の悪い笑い声が響いてくる。都合よく解釈しちゃえばいいじゃない。だって、あの二人は付き合ってないんだよ。それなのに、悠さんはわざわざあたしのところまで来てくれた。それってつまり、そういうことじゃないの?
 期待しなさいよ。打ち響いてくる声を振り払うように、頭を振った。違う。ありえない。だって、悠さんだもの。だって、あたしだもの。
 そうこうしている間にも、観覧車はもうすぐ天辺というとこに差し掛かっていた。日が暮れた今、灯り始めたパーク内のライトがとても綺麗だ。それどころじゃないのはきっと、この観覧車であたし達くらいなものだろう。

「あんた、勝手すぎるだろ! 意味わかんねぇよ!」

「どんな罵倒でも受ける覚悟はしてる。君はもちろん、マリカちゃんからも。マリカちゃんが望むなら、……そうだね、もうあの家には戻らないよ。赤の他人が同じ家にいるの、不安だろうから。だから、聞いて。決めるのはマリカちゃんだ。俺でも、タカナシくんでもない。……ごめんね、ひどい男で」

「はるかさん……?」

 あたしに向かって伸ばされた手を、小鳥遊くんが振り払った。それでも悠さんはうっすらと微笑んで、あたしの名前を呼ぶ。

「マリカちゃん、好きだよ。――ずっと、マリカちゃんのことだけ見てた」

「え……」

「俺が好きなのは、リィじゃない。君なんだ。……俺は、君が欲しい」

「ッ、ハルカさん!!!」

 ぐら、と観覧車が大きく揺れた。けれどそんなことで驚いている余裕なんてない。
 今、悠さんはなんて言ったの?
 これは夢か。そうだ。毎度毎度見てしまう、目覚めの悪い夢に違いない。
 小鳥遊くんの怒鳴り声が聞こえる。どうして彼は怒っているんだろう。これはただの夢なのに。――ゆめ?

「いい加減にしろよ! なんなんだよ気持ち悪ぃ! てことはあんた、茉莉花に近付くために家にまで上がり込んだってことか!? あんたも栗子さんも、なに考えてんだよ!」

「そうだね。通常じゃありえない。きっと俺もリィも、少しおかしいんだ。でも、それでも、俺はマリカちゃんを手に入れたかったんだ」

 欲しいんだよ。
 まるで人を犬か猫みたいに、言う。

「どんな罵倒も受け止める。……たぶん、リィもある程度のリスクは覚悟してくれてるんだと思う。だから、なにを言われたって、俺はこれ以上自分の意思を曲げない。隠さない。…………皮肉にしか聞こえないかもしれないけど、小鳥遊くんのおかげで勇気が出たんだ。君が現れてくれたから、ようやく気がつけた。俺はこの子を、どんな手段を用いてでも欲しかったんだって」

「茉莉花の意思はどうなんだよ!?」

「もちろん、尊重するよ。言ったでしょ。気持ち悪いって思ったなら、俺はもうあの家には戻らない。二度と会うなって言われると……ちょっと約束できないけど、ここの法律に引っかかるようなことはしないよ。もちろん、身体だけ無理やり手に入れようなんて思ってない。俺が欲しいのは、マリカちゃん全部だから」

 いつの間にか、観覧車は天辺に到着していた。ここでしばらく制止するのだ。景色を楽しめるように。
 けれど、景色なんてなんの意味もなしていない。この世界にあるのは、ただの喧騒だけだ。頭がおかしくなりそう。もうやめて。なにも言わないで。なにも聞きたくない。
 じわりと滲んだ涙の熱さに、眼球が焼けそうだ。もうやめて。渇望は絶望に変わる。

「決めるのはマリカちゃんだ。俺は、マリカちゃんが好きだよ。マリカちゃんが欲しい。だから教えて。――今すぐじゃなくていい。考えておいて」

「あんたっ……!! 茉莉花! 聞かなくていいから!」

 それを決めるのもマリカちゃんだよ。
 ずるい。ひどい。どうして全部あたしに押し付けるの。
 どうして、なんで、そんなこと、言うの。
 もう、あきらめたのに。

「マリカちゃん、」

「茉莉花!」



――好きだよ

(信じてるから、茉莉花)
(マリカちゃんが決めて。俺は、待ってる) 


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