ねえ、気づいて [ 2/29 ]

ねえ、気づいて


hi

(やっぱり気づかなくていいよ)
(むしろ気づかないでいて)



 あたしは馬鹿じゃないのか、と自問した。当然答えはイエスだ。虚しいことこの上ない。
 もうじき試験が待っている。勉強しなくちゃいけないのに、ソファで無防備に眠る悠さんから目が離せない。――違う、目どころか、足がソファの前から動かない。
 気がつけば床にそのまま膝立ちになって、すうすうと静かな寝息を立てる悠さんをそっと覗き込む。当然息は殺した。このまま目を覚まされたら、間違いなく恥ずかしさで発狂できる。相変わらずの綺麗な顔に、零れそうになるため息を必死で飲み込んだ。
 悠さん。悠さん、悠さん。心の中で、唇だけで、何度も名前を呼ぶ。ねえ悠さん、聞こえてますか。聞こえてるなら、どうか起きないで下さい。どうか、聞かないで下さい。
 矛盾した想いがぐるぐると渦巻いて、つきんと胸が痛む。苦しくて切なくて、どうしようもないのにあたしはこの気持ちに名前を付けられずにいた。

 この人は、姉の彼氏なのだ。

 姉も本人も否定するけど、どう考えたって恋人同士にしか見えない。美男美女の、文句の付け所がないカップル成立だ。「かたくりこ」なんて変なあだ名がついてるくせに。そんなやっかみまでが飛び出してくる。
 今はその姉もバイトに行っていて家にはいない。塾講のバイトをしている姉は、近所でも有名なセンセイだ。美人で教え方の上手い、気さくなお姉さん。自慢のお姉ちゃんだね、なんて言ってくるおばさんもいて、その度にあたしは惨めになる。
 ――もちろん、姉が嫌いなわけじゃない。それでもやっぱり、植えつけられたコンプレックスっていう厄介なものは簡単には解消されてはくれない。
 ねえ、悠さん。あなたはあの人といて幸せですか。あなたの自慢の恋人ですか。我侭で強がりで意地っ張りだけど、本当はすごく泣き虫なんです。誰かが傍にいてあげないと、不安で仕方のない人なんです。だから悠さん、ずっと――

「ずっと、傍にいて下さい……」

 聞こえてきた自分の声に、驚いて顔を跳ね上げた。慌てて悠さんを見るけど、彼が起きる気配はない。ああよかった、これでいいのだ。
 いつまでも座り込んでいるわけにはいかないので、音を立てないように注意しながらそっと立ち上がった。部屋に戻って勉強しよう。この家にいるのは、あたしだけだと思えばいい。
 鼻の奥がつんとしているのがひどく不思議だったが、あたしは鏡を見ることなくリビングを後にした。
 姉が帰ってくるまで、悠さんが目を覚まさなければいい。そんなことを思いながら。



+ + +




 初めてあの子を見たとき、なんて平凡な子なんだろうと思った。リィと隣り合わせに映る写真の彼女は、妹だと言われなければ血の繋がりなんて一切感じなかったほどだ。
 女として、なんの興味も抱かなかった存在。けれどリィから話を聞くうちに、だんだんと彼女をもっと知りたくなった。リィがあまりにも愛おしそうに彼女のことを話し、時々切なそうに眉をゆがめるのだから、なおさらだ。
 リィは彼女の話をするとき、決まってこう締めくくった。
 『アタシがあの子を、縛りすぎちゃったのよ』
 どういう意味かはすぐに分かった。なににおいても優秀な姉と平凡な妹。周りの目が自然と彼女達を比較する。そのつらさは身に沁みてよく分かっていたから、きっと彼女とも気が合うだろうと思っていた。
 ジャスミン――薫り高い、優雅で甘美な花の名を持つ少女。気がつけば会ったこともない彼女に興味以上の感情を抱いていて、リィが戻るときに無理を言ってついてきた。リィと恋仲になったリュカは、呆れたように「行くならさっさと行け、馬鹿」と俺の身分を顧みずに言ってのけた。
 彼女を知るために――いいや、彼女を得るためにこの世界に来たというのに、実際やってることはといえばリィのパシリだ。なにかがおかしい。
 そんなことをつらつらとソファで考えていたら、いつの間にか意識が飛んでいた。深淵に沈み込んでいた意識が浮上してきたのは、誰かに痛切な声音で名を呼ばれたから――だと思う。

 ――悠さん

 聞いている方が切なくなる声だ。声の主は確かめなくても分かる。ジャスミンちゃんの声。
 これは夢だろうか。ジャスミンちゃんが必死で俺を呼んでいて、今にも泣きそうな顔をしている。きっと夢だ。あの子が自分から俺に近づいてくることはないから。
 だけどこれほど幸せでもどかしい夢もなかなかない。折角呼ばれているのにそれは切なくて、なおかつ俺は身じろぎ一つできないのだ。手を伸ばして頬に触れることも、抱きしめることもできない。――後者は起きていてもできそうにないけれど。

「ずっと、傍にいて下さい……」

 違う。これは残酷な夢だ。これが夢だというなら、俺はもう一生夢なんて見ない。
 ふっと一瞬視界に影が差して、ぱたぱたと足音が遠ざかっていった。控え目にドアの閉まる音が聞こえる。
 ……足音? ドアの閉まる音?

「ッ――!」

 がばりと跳ね起きたそこには、眠る前と寸分違わぬ光景が広がっている。風に揺れるカーテン、口をつぐんだテレビ、食べかけのビスケット。
 ただ一つ違ったのは、足を下ろしたフローリングの暖かさだった。素足に感じたそれがあるところで人肌に近い温度になっている。その場所は、ちょうど俺の頭の方だ。

「ジャスミンちゃん……? まさか、今の――」

 夢か現か、一体どっちだろうか。
 ――ずっと、傍に。頭の中で勝手にジャスミンちゃんの声が蘇る。同時にかっと熱くなった身体を抑えるように、再びソファに突っ伏した。考えれば考えるほど、第二の心臓が頭にできたような感覚を覚える。
 恐怖にも似た感情が走るのは、人間の不思議なところだと思う。好きで愛おしいのに、傍にいると安心するどころか不安になる。あの子の目がこちらに向いていないと苦しいのに、ほっとする。
 意味が分からない。向こうにいた頃、一切味わったことのない感覚に頭が混乱しそうだ。
 ポケットの中で唸りをあげた携帯――こっちに来てから、リィがまずくれたものだ――を取り出し、誰からかを確認せずに通話ボタンを押した。

「……はい、もしもし」

『もしもしハルカ〜? アタシ、栗子。ちょっと塾講のメンバーで飲み会行くことに決まっちゃって、今夜帰るの遅くなりそうなんだけど。茉莉花と二人っきりだけど大丈夫よね?』

「ふ、ふたりっきり!?」

『……なぁに過剰反応してんのよ。別に襲っちゃってもいいけど、泣かせたらタコだからね。タコ。意味分かる? タコ殴りってこと』

「リィじゃないんだから、そんな真似しないよ……」

『アタシがリュカ襲ったことあるとでも? まあどうでもいいわ。それより、家に茉莉花いる? さっきから携帯繋がんないんだけど』

「え……?」

 さっきのが夢じゃないのなら、ジャスミンちゃんは間違いなくこの家にいるはずだ。携帯に出ないってことは、寝てるんだろうか。少しイラついたリィの様子に後押しされ、携帯片手にジャスミンちゃんの部屋の前まで行く。僅かに零れてくる光に、「部屋にいるみたいだよ」とリィに告げれば、彼女はなんと『じゃあ代わって』と言ってきた。
 つまりは俺に中に入れと? いやいや、そんな。この家に来てもう大分経つけど、未だかつてジャスミンちゃんの部屋に足を踏み入れたことなんてな――

『早くしろよドヘタレ公爵』

「はい、すみません」

 ああ無情。緊張で強張る腕をなんとか自然に動かして、少し控え目に扉をノックした。こんこん。中からの返事はない。

「……ジャスミンちゃん? 寝てる?」

 寝てるといいな、そんなことを思いながら。

「ジャスミンちゃーん? リィから電話なんだけど、寝てるよねー?」

『なによその寝てたらいいな、みたいな言い方。いいからさっさと入りなさいよ。お姉ちゃんが許可します』

「リィは黙ってて。ほんとに寝てるんだったら、可哀想でしょ」

「……悠さん?」

 リィに文句を言った途端、聞こえてきた声にどきりと心臓が大きく跳ねた。うわあ、これはヤバイ。不意打ちって威力が倍増だ。
 そっと開けられた扉の向こうに、俯いたジャスミンちゃんが立っていた。漏れ聞こえてくる音楽は、俺の知らない歌手のもの。大分この世界の流行にも慣れたつもりだったんだけど、それでも追いつくのは難しい。優しい穏やかな歌声が、ジャスミンちゃんにとてもよく似合っていた。

「リィから。ジャスミンちゃんに電話だよ」

「あ、すみません……ありがとうございます。――もしもし、お姉ちゃん?」

 自然に浮かぶ嘘つき笑顔でジャスミンちゃんに携帯を渡す。『向こう』での立場上、社交界モードを意識すれば笑顔なんていくらでも作れる。――こうでもしないと、ジャスミンちゃんの前でとんでもない失態を犯しそうだ。
 壁にもたれて、部屋の中で会話する彼女の背中を静かに見つめた。携帯を待つふりをして、さり気なく部屋に目をやる。ああもしかして俺って変態じみてる? リィに言えば鼻で一蹴されそうだ。
 「えっ、なんで!」と抗議の声がジャスミンちゃんから突然上がった。ちらちらとこっちを見てくる彼女の目は、どことなく気まずそうだ。……やっぱり彼氏でもない男と家に二人きり、なんてシチュエーションは嫌なんだろうな。
 自分で考えて落ち込むこの思考回路、リィやリュカに言わせれば「めんどくさい」のだそうだ。公爵という立場をまったく考えもせず、「お前めんどい」と言ってきた親友の顔が浮かび、思わずため息が漏れる。
 このままここにいても迷惑だろう。会話の邪魔をしないようにそっと部屋の前から立ち去る。
 コーヒーでも淹れて、それからソファに横になろう。テレビを見ながら夕食をどうするか考えて――よし、いざとなったら外食しよう。ジャスミンちゃんを家に一人にさせるのは忍びないけど、俺と二人っきりでご飯にするよりはマシだろうから。

「……うわ、へこむ」

 リビングにつくなりソファに倒れ込み、クッションに顔を埋めて呟いた。
 ごめんリィ、リュカ。しばらく俺、帰れそうにない。 
 あの子を得るためにこっちに来たのに、収穫は「悠さん」って呼んでもらえることくらいだ。リュカみたいにもっと女性に上手いことが言えたら、少しは変わっていたんだろうか。

「困ったなあ……早く帰ってきてよ、リィ」

 でないと俺、心身症になりそうだ。
 ――この呟きをジャスミンちゃんに聞かれていたともし気づいていたら、このあとの悩みは多少なりとも緩和されていた……かもしれない。




もしも、きみのこころが見えたなら。




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