おきつねさまにお願い [ 2/22 ]

おきつねさまにおねがい


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 幸か不幸か、闇討ちめいた騒動には身体が慣れてしまっている。
 夜中に気配が生じたと思ったら、狐とも狼ともつかない、馬よりも大きな獣に首根っこを咥えられ、乱暴に背に乗せられた。抗議の声を発する暇も髪を結う暇も、はたまた上着を羽織る暇さえ与えられずに、屋敷から無理やり連れ出されたのは半刻ほど前のことだった。
 途中木の枝にぶつけた額を擦りつつ、男は目の前で不敵に笑う影を見やる。
 否、影と言うにはあまりにも目立ちすぎる存在だ。銀糸の髪、金の瞳。揺らめく尾は四股に分かれ、真珠を練り込んだような衣が風もないのに揺れている。整った顔立ちはぞっとするほど美しく、その小さな頭から覗く獣の耳が人ではないことを告げている。
 男はそれが一体何者であるのか、嫌というほど知っていた。
 ――天狐族が長、月乃女(つきのめ)。
 月の名を宿す彼女はあやかしの中でも神に近く、刺すようなほど強い神気を纏っている。本来ならば人間風情と言葉を交わすこともありえない存在だが、風変わりな天狐はいくつかの例外を持っていた。その例外の中の一人が、彼自身だ。
 天狐の方から口を開く様子はないため、仕方なしに彼から問いかけた。

「脆弱なる人間の子一人に、崇高なる天狐族の長を務める月乃女様が、一体どのようなご用件でしょうか」
「相変わらず慇懃無礼という言葉の見本だな、お前は」
「……あんたが急に呼び出すから悪いんだろ。折角気持ちよく寝てたっていうのに」

 ぶつぶつと愚痴を零しながら欠伸を噛み殺した男は、苛烈な神気など気にした風もなく石段に腰を下ろして首を鳴らした。
 梳られていないぼさぼさの黒髪を掻きながら、彼は嘆息交じりに月乃女を見上げる。闇の中にあっても輝く金の双眸は、面白そうに歪められていた。

「我に逆らうか? いいだろう、その代わりに子々孫々まで祟ってやる。安心して逝くがいい」

 いっそ晴れやかな笑顔を浮かべて淀みなく紡がれた言葉に、男はあからさまに嫌そうな顔をしてみせた。
 これがただの脅しでないことは、彼は身をもって理解していた。かつて冗談だと思って月乃女の言葉を無視した際、呪われたのか祟られたのか、本当に十日ほど生死の境を彷徨ったことがある。理由もなく屋敷が半壊し、家移りを余儀なくされたこともあった。
 “人にあらざる力”に関しては徒人とは比較にならない力を持っていると自負している男にとって、己の力ではどうしようもなかったあの状況は苦い思い出になっている。
 もしもここで文句を垂れ続ければ、この天狐は躊躇いなく祟ってくれるだろう。その言葉通り、男の血が入る者達を。
 さすがにそれは避けたかったため、男は一つかぶりを振って深く息をついた。これ以上抵抗する言葉を探すのも面倒だと匙を投げ、でき得る限り佇まいを正して彼女と向き合う。
 聞く体制に入った彼に、月乃女は大層嬉しそうに微笑んだ。

「初めからそうしておけばよいものを。なに、かしこまる必要はない。頼みごとがあってな」
「頼みごと? なんか余計なこと企んでるんじゃないだろうな」
「さて、どうだろうな」

 含みを持たせた嘲笑を浮かべ、月乃女はぱちんと指を鳴らした。突如騒ぎ出した風には、彼女の神気が含まれている。おそらく式をこちらに向かわせたのだろう。
 訝る男を流し見て、一層彼女は笑みを深めた。

「小汚い兎を一匹、飼ってほしくてな」
「兎? 一体なんなんだよ、その兎って……」
「見れば分かるさ。そら来た」

 こん、とくぐもった声で鳴いて、一匹の子狐が夜空から降り立った。尾には青白い狐火を灯し、口にはなにかを咥えている。よく目を凝らしてみれば、それは人形のようにも見えた。先ほどの自分と同じように首の後ろを咥えられているのだが、式の大きさが小さかったせいか、背には乗せてもらえなかったらしい。もぞりと人形が身じろぐ。
 ――否、人形ではない。あれは童女だ。年の頃三つ四つの、舌足らずな人間の子供だ。
 それがなぜここに、と考えたとき、男ははっとする。涼やかな目元を細めて月乃女をねめつけると、彼女は飄々と笑って腕を組んだ。衣擦れの音が耳朶を叩く。

「見ての通り小さな兎だ。飼え」

 寒気のするほど美しい微笑と共に、冷冽な言葉が紡がれる。人を人とも思わぬ発言に男の中でぐつりと怒りが湧いたが、反論のために口が開かれることはなかった。
 すべては無駄なことなのだ。人と決して相容れることのないこの天狐は、人の訴えを聞いてすまなかったと謝罪するような者ではない。神の眷属だからこそ、人の思いは分からぬし、人とて神の思いは理解できない。
 子狐にやや乱暴に地面に落とされた童女は、身体中に木の葉を引っ付けた出で立ちですうすうと寝息を立てていた。
 ――なんとも肝の据わった子どもだ。
 呆れを通り越して感心した男は、すっと腰を屈めて童女の頬についていた土汚れを指先で拭ってやる。その拍子に小さく唸った童女が寝返りを打ち、男の沓(くつ)に小さな拳を打ち付けた。うっすらと瞼が押し上げられるのを見て、そのまま起きるかと思ったが童女は再び瞼を閉じてしまう。

「――これのどこが兎だって?」
「丸い目を赤くさせて『かかさま』と泣きじゃくる。兎以外の何者でもあるまい? なに、どうせ親もおらぬ野兎だ。遠慮などすることなかろう」
「……冠絶なさる天狐様に申し上げますが、人間は“飼う”ものではございません。ご存知ありませんか?」
「ああ、ご存じないな」

 嫌味を込めて敬語で言えば、数倍の嫌味を込めて返される。銀色の長髪が風にたなびく様を見て、男はやはり無駄だったか、と大息をつく。

「保護するにしても本当に親がいないのかは分からないし、どういう素性なのかも分からない。第一、気に入ったのならあんたが面倒みりゃいいだけの話だろ。俺に押し付けんな」
「いいのか? 狐の手元に兎を置いても」

 喰うぞ、と舌なめずりをしながら月乃女は童女を見下ろし、つま先でちょん――ではなく、どすっと音がしそうな勢いで童女の尻を蹴り飛ばす。衝撃でごろごろと二、三度地面を転がった童女は、ようやっと目を覚ましたらしくきょとんとした様子で体を起こした。
 月乃女の行動に慌てた男をちらと見て、彼女は童女の前に屈みこむ。すると童女は天狐の姿を見て、嬉しそうに顔を綻ばせた。

「おきつねさまっ!」
「口を閉じろ無礼者。この天狐にたかが人間の願いを叶えてもらおうなど、笑止千万。不届き極まりないわ」
「しょう、し……? ふとどき……?」

 言葉の意味が理解できない童女は、大きく首を傾けてうーんと唸った。暗視の術をかけていない童女が月乃女を目に映すことができるのは、天狐の傍らに控える子狐が狐火を絶やさぬからであろう。このとき、男はそう思って疑わなかった。自分ほどの霊力があるのならまだしも、徒人が暗闇の中を見通すことは不可能だからだ。
 狐火の青白い光に照らされた天狐の姿はとても美しいが、同時に不気味でもあった。目が合えば魂を奪われそうな空気を醸し出しているというのに、童女は臆した風もなくじっと彼女を見つめている。
 小さな子ども相手に容赦のない天狐にかける言葉を捜していた男を、ふいに彼女の長い爪が指し示した。それにつられて童女の大きな瞳が彼に向く。

「我よりもあれの方が、貴様の言う狐に近い。あれに飼ってもらえ」
「あのひとも、おきつねさまなの?」

 嫌な汗が流れ出した男を尻目に、月乃女はにぃと口角を吊り上げて妖しく笑んだ。

「ああ。ある意味、ただの狐などより役に立つ」
「おい、つ――」
「ハル」

 冷ややかな声に、男の肩が揺れた。“ハル”とたった二文字だけの言霊に、声さえ奪われる。ハルというのは、男のもう一つの名前の略だった。真名ではないにしろ、桁外れな神通力の前では魂を縛る鎖となる。
 童女の前で名を呼ぶなと言外に語った月乃女は、乱暴に小さな身体を男の方へと突き飛ばした。よたよたとおぼつかない足取りでやってきた童女を反射的に支えて抱きとめ、その行動にしまった、と激しく後悔する。
 身を離そうと腕を突っ張った男の手首を、熱いと感じるほどの両手が包み込んだ。

「おきつねさま、あのね、かかさまにおあいしたいの!」
「悪いが俺は……」
「おばばさまがね、おきつねさまにおいのりしなさいっていったの。ひめさまは、ななしにはむりだって、いったんだけど」
「姫様? どっかの屋敷に仕えてたのか?」

 どうやらどこぞの女房の娘らしい。身なりからしててっきり農民の娘だと思っていただけに、男は面食らった。一方月乃女は出生などどうでもいいと言った風体で片胡坐を組み、男と童女のやり取りを眺めている。時折傍らの子狐を撫でてやりながら、彼女は真っ直ぐに金の双眸を向けていた。

「ねえ、ななしでもおねがいきいてくれる?」
「聞いてやれ。なんならお前が名をつけてやればいいだろう?」
「勝手ばかり言うな! 大体俺は、この子を引き取る気なんて――!」

 ない、と言い切る前に男は言葉を切る。見上げてくる純粋な瞳は、その先に続く言葉がなにか分かってはいないのだ。代わりにくそ、と吐き捨てて、どうしたものかと頭を掻いた。
 この状況を楽しんでいるとしか思えない月乃女は、まるで酒の肴のように彼らを一瞥したあとゆっくりと唇を割り開く。

「晴明」

 歌うように呼ばれた名は、確かに男のものだった。だが魂を縛り付けるような衝撃は先ほどよりも薄く、月乃女が大して力を入れていないのだということも分かる。
 しかしそこには、どんな言霊よりも有無を言わせぬ響きが存在した。

「……分かった、引き取りゃいいんだろ引き取りゃ! その代わり名は“つきのと”にしてやる」

 きょとん、と目を丸くする童女の後ろで、月乃女が眉を寄せた。不愉快そうなその表情に、晴明の口元が緩む。いい気味だ、と心中で笑って、彼はさらに言った。

「月乃兎(つきのうさぎ)と書いて、“つきのと”だ」
「やめろ。お前は我の名を穢す気か」
「いえいえ、滅相もございません天狐様。なあ、つきのと?」

 うん、と明るく頷いた童女に月乃女は渋面を作って舌打ちした。腹いせに小さな頭をぱしんと叩き、涙目で見上げてくる童女の薄汚れた頬を指で摘んで左右に伸ばす。もちのようによく伸びる頬に感心していた晴明は、舌足らずな「いひゃい」という声を聞いて、慌てて月乃女に静止をかけた。
 ぱっと離された頬は赤く燃えるように染め上がり、両手で頬を押さえながら晴明の後ろに隠れる童女は妹のようだ。ふん、と鼻を鳴らした月乃女が跳躍し、木々を伝って闇の向こうに姿を消す。そんな様子を見ながら、彼は苦笑交じりに童女を抱き上げた。
 おきつねさま、と零した童女に、彼は「せ、い、め、い、だ」と一音ずつはっきりと発音しながら告げてやる。すると何度か舌の上で彼の名を転がしたのち、屈託のない笑顔で「せーめーさま!」と言った。
 厄介な拾いものをしたものだ――。家の者にどうやって説明しようかと逡巡していたところ、童女が首にしがみついてきた。思いの外力強いそれに息苦しさを感じるも、か細い腕が離れていくことはない。どうしたと問えば、いかにも眠たそうな声音が帰ってきた。

「かかさま、いつあえるかなぁ」

 この童女が真実を知るのは、安倍家に引き取られてまもなくのことだ。生まれて間もなく母が亡くなったことを聞いた彼女は大層落ち込んだが、ならば母の分まで生きると豪語してすくすくと育っていった。
 そしてその数年後、今度は晴明の方が真実を知って驚くこととなる。今はつきのとと名づけられたこの童女、星宿を調べてみれば、あの醍醐天皇の落胤だと出たのである。口外できない関係の女との子であったためか、朝廷でも一部の者しか知らぬよう、女房の娘として育てられていたのかもしれない。数奇な星の下に生まれた子ではあったが、今や立派なおなごとして安倍家を守っている。
 そう、安倍家の人間として。

「つきのと、今日は少し遅くなる。一人でもきちんと寝ておけよ」
「まあ、晴明さま。もうわたくしは子供ではございませぬ。立派な大人なのですよ」
「だったら月乃女に冷やかされたくらいでぴーぴー泣くな。立派な大人が聞いて呆れるぞ」
「なっ、ご覧になっておられたのですか!?」
「いや。月乃女が言っていた」

 顔を高潮させたつきのとは、そのまま踵を返す晴明の衣の裾をしっかと掴んで上目遣いに睨み据えた。羞恥で滲んだ瞳はほんのりと赤く、まさに兎を連想させる。
 十代前半の年相応の表情をしながら頬を膨らませ、彼女は心持ち控え目に怒鳴った。

「おきつねさまも晴明さまも、お人が悪うございます! 晴明さまは口も手癖も意地だって悪くて、わたくしは“えきへき”しておるのですよ!」
「そんな男の嫁にしてくれと言ったのは、お前の方だろ? それから、“えきへき”じゃなくて“辟易”だ。へ、き、え、き」
「ぬあっ……! せーめーさまっ!!」

 夕日のように耳まで紅に染まったつきのとの顔を見て、晴明が豪快に吹き出した。腹を抱えて笑う夫に怒りが募り、思い切り足を踏んでやろうと右足を上げた途端、後ろから吹いてきた突風に足元を掬われて後ろにまろびそうになる。短く上げた悲鳴に素早く反応した晴明の腕が、つきのとを支えた。おかげで背中を打つことは避けられたが、突然のことに高鳴る心臓は慣れていてもそら恐ろしいものがある。
 胸に手を当てながら振り向いたつきのとの目には、予想通り白銀の秀麗な天狐が飄々とした笑みを浮かべて佇んでいた。

「夫婦喧嘩か? 見苦しいな、野兎よ」
「野兎ではありません、つきのとです!」
「貴様など野兎で十分だ。それより晴明、急げ。貴船で竜神が駄々をこねだした。なんでもこの国が沈むほど雨を降らせるらしい」
「おいこら月乃女。お前かの神の説得に向かったんじゃないのか」
「あれと我は気が合わぬ」

 けろりとして言ってのけた月乃女に頭を抱えた晴明は、浴びせてやりたい文句の数々を必死で飲み込むと、つけていた烏帽子を取ってつきのとに投げ渡した。反射的に受け取ったそれと夫を交互に見て、年若い妻は目を丸くさせる。
 あの、と尋ねる間もなく彼は屋敷の門へと駆け出していた。

「もう。…………お気をつけて、晴明さま」

 どうかあの人を、お守り下さい。
 ――おきつねさま。



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