おきつねさまの気まぐれ [ 1/22 ]

おきつねさまのきまぐれ


おきつね!

 芯と静まり返った夜だった。
 漆黒の帳が静かに下ろされたこの場には、虫の奏でる歌と風の声しか彼女の耳を汚すものは存在しない。天上高く浮かぶ月の明かりさえなければ、一寸先も見えぬような暗闇だ。好き好んで外をうろつく人間などいるはずもなく、耳障りな音を生み出す者はそういない。
 朱塗りの鳥居が幾本も連なったその場所で、灯篭に腰掛けていた彼女はくい、と杯を傾けた。喉を落ちる酒の香りは悪くないが、やや物足りない。
 静寂だけが許されたその場所に、忙しない足音が遠くから響いてきた。ぴくりと耳を動かしてそちらに目を向ければ、闇に紛れて小さな影が動いているのが見て取れた。

「愚かしい……」

 彼女は低くそう呟いて、杯を宙に放り投げた。神酒が半円を描くように飛び散ったが、彼女を濡らすことはない。
 瞬き一つ分の間に彼女は高く跳躍し、三本目の鳥居をくぐろうとしていた影のもとに舞い降りる。ひゅっと息を呑む音が聞こえたが、耳障りな叫び声はしなかった。
 無感動に金の双眸を影に落とす。そこには古びた布を纏い、髪を首の後ろで結わえた小汚い童女が、大きな目を見開いて立ち尽くしていた。

「我の耳を汚したのはお前か」
「……おきつね、さま」

 童女が質問に答えることはなく、突然降り立った彼女を見上げて、放心したままそう呟いた。そして己の発した声に驚いたのか、童女ははっとしてさらに目を大きくさせる。
 それ以上開けば落ちてしまうのではないかと危惧するほど目を丸くさせた童女は、次の瞬間とろけそうなほど嬉しそうに笑んで、彼女に飛びつこうと大きな一歩を踏み出した。
 ――が。

「寄るな、汚らわしい小娘が」

 風もないのに翻る純白の衣に触れる前に、童女は見えない壁のようなものに弾かれて後ろ向きに転倒した。勢いよく石段に頭をぶつけそうになるのを、すんでのところで突風が体を支えてゆっくりと地面に下ろされる。
 異質な力を目の当たりにし、童女はぱちくりと目をしばたたかせた。見上げる先にいる“おきつねさま”は、朝露を孕んだ蜘蛛の糸よりも美しい銀の髪と耳に四尾をひょんと揺らし、真珠を練りこんだように輝く純白の衣を無造作に纏っている。鋭い金のまなこは瞳孔が楕円形に裂けているが、恐怖よりも美しさに心が奪われた。
 童女は知らないが、彼女は童女が思うような“おきつねさま”ではなく、神に準ずる力を持つ天狐なのだ。
 苛烈な神気を小さな体に浴びせられ、童女は泣くかに思えた。彼女の持つ神気は、妖や神の末席に連なる者達をも竦み上がらせる。それがただの人の子であれば、怯えて当然だ。しかし天狐の予想を裏切り、童女はにへら、と破顔してみせたのである。

「おきつねさま、あのね、かかさまにね、おあいしたいの!」

 たどたどしく言いながらも身振り手振りで話す童女は、天狐の機嫌を大いに損ねた。元々彼女は、こういった童が嫌いだった。特に人の子はなにを言っているか分からないし、小汚いしなにしろ無礼だ。
 嫌なものに関わってしまったと思い踵を返そうとした天狐の衣を、童女は必死で掴もうと手を伸ばす。しかし紅葉のように小さな手のひらがそれに触れることはなく、先ほどと同じように見えないなにかによってばちりと弾かれてしまうのだ。
 だが童女は諦めようとせず、とことこと一生懸命石段を駆け上がりながら天狐の横に並ぼうとする。
 このとき、彼女は気づいていなかった。人の子とは比べ物にもならない長い時を生き、膨大な知識とそれを操るだけの聡明さをも持ち合わせていた天狐は、今宵訪れた“不思議”に気づくことができなかった。
 輝く金のまなこは、光などなくとも昼間と同じように辺りを見通すことができる。人の子とは違うのだ。それが当然だった。しかし、ならばどうして、後ろを追ってくる小さな童女は彼女の姿を見ることができたのか。月の光があるとはいえ、山の中はひどく暗い。童女の目には己の足下すらはっきりとは見えないはずなのに、小さなまなこはしかと彼女の姿を捉えていたのだ。

「かかさまね、とつくににいったんだって。だからね、だから――」
「黙れ。耳障りなその口を閉じろ。我は貴様に関わる暇などない」

 血を凍らせるかのように冷え切った声音に、童女の足が止まる。鋭い獣の目で見下ろされ、童女の目が初めて恐怖で揺れた。
 その隙に天狐はひょいと跳躍し、鳥居の上をとんとんと飛び渡って遠ざかる。汚らわしいと吐き捨てて、彼女は池のある方へを向かった。背中の方から童女の胸を裂くような泣き声が聞こえたが、天狐にとってそれは煩わしいもの以外の何者でもなく、心を痛めることなどない。
 ざっと木々を掻き分けて池へと出る。手頃な木に腰掛けて、瞼を下ろす。
 これだから人の子は――。
 人間などとは比較にならない聴力を持つ彼女は、遠くでわんわん泣き叫ぶ童女の声が鮮明に聞こえていた。鼓膜を震わせ、脳に揺さぶりをかける不快な音は収まる気配がない。それにしても、どうしてこのような刻限に童女が神社にやってきたのだろうか。大方親にでも捨てられたのだろうと考えて、天狐はひょんと四尾を揺らす。

「外つ国と言ったか……」

 海を渡った先の大陸に、あのようなみすぼらしい童女の親が行けるはずもない。おそらく、誰かが童女に教えた“外つ国”は、黄泉の国を意味しているのだろう。どれだけ童女が願っても、死なぬ限りは母親に会うことはできない。

「そういえば、あの馬鹿も母だのなんだのと喧しかったな」

 ちょうどあの童女と同じ年の頃だっただろうか。怜悧な瞳には涙を浮かべ、今にも泣きそうな声音で「ははうえ」などと言っていた子供を知っている。今はもう生意気なまでに大きく成長したが、確か昔はあの童女と同じようにうるさかったはずだ。
 まがいもの、と呼べば、心を殺して睨んできた少年。“あの女”とよく似た涼やかな目元を思い出し、天狐はくつくつと喉の奥で笑った。
 耳の奥にはまだ童女の騒がしい泣き声が木霊している。このままではここの神も不快になるだろうと考えた天狐は、腰を上げると枝の上に立ち、なるべく大きな葉を一枚引きちぎった。そして己の髪を一本引き抜き、丸めた葉に巻きつけてふうと息を吹きかける。すると瞬く間に木の葉は狐とも狼ともつかぬ純白の獣に姿を転じ、夜の闇を駆った。
 闇に消えた獣が向かった先は土御門。
 人でありながら人にあらざる力を持つ、生意気な男のいる場所だ。

「さて……」

 天狐が人の目であれば見えない暗闇の先を見通した。千本鳥居の下で蹲る童女を見つけて、今度は小さな木の葉を引きちぎる。そして彼女はそれに髪を巻きつけず、そのままの状態で息を吹きかけて彼方へ放った。
 吐息と共に葉に宿った青白い灯火が、ゆらゆらと闇を滑るように飛んでいく。途中で姿を変えた木の葉は、尾に狐火を灯した金毛一尾の子狐となってとことこと闇の上を歩いていった。
 しばらくして、童女の泣き声がやんだ。代わりに驚いたような、嬉しそうな歓声が上げられ、式の気配から童女が眠ったのだと分かる。
 今は夏だ。神聖なこの場には妖も入り込めはしないし、野党も現れる気配はない。一夜くらい放っておいたところで死にはしないだろう。それに、じきに彼女が先に放った式が、お目当ての人間を背に乗せてやってくる。
 暗闇の中でも天狐の姿を見通すことができる、類稀なる人間だ。

 彼が訪れれば、そいつに押し付けてしまえばいいのだ。

 すべては神の気まぐれ。

 それを一番知っているのは、あの青年なのだから。



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