その世界ではただの回復アイテム。美味しく食べましょう。






食事の皿を片付け、お茶の用意もできた。湯気が立つ紅茶と丁寧な包装の箱の前に鎮座した◎は、そわそわと浮き足だった様子で勝己を見る。

「じゃあ、いただきます」

「ん」

気のない返事をするが、そう装っているだけだった。勝己も◎がそれを口にするまで、全意識がチョコに向いていた。人気商品でも味の好みは分かれる。パン屋のクッキーより美味くなければ、勝己にとっては意味がないのだ。
否、クッキーよりも美味いのが確定でも、反応を見たかった。

箱を開けると、黒い箱の中では生チョコがタイル状に並んでいる。顔を近づけてすんと嗅いだ後、その甘い香りにほうと息を吐く。それを数度繰り返した後、◎は少し考えて、蓋をそっと閉じた。
次のアクションは間違いなく「食べる」。そう思っていた勝己は、ズルと頬杖から顔を落とした。また面倒なことを考えていると悟り、リボンを結ぼうとする◎に「おい」と強めに声をかける。

「何してんだ。食えや」

「やっぱり明日食べる」

「ああ!? 何でだよ食えや! 風味劣化すんだろが!」

「すぐ食べるのなんだかもったいなくて……」

「クソくだんねえ理由で渋ってんじゃねえよ! 殺すぞ!」

美味けりゃまた買うわ。つーか店まで連れてくわ。
とは口にしなかったが、◎が気に入ったのならリピート購入する気が勝己にはあった。

◎の長々とした逡巡に苛立ち、腰を上げる。向かいの◎の前にある箱をがばと開けると、中にあるピックを取り、躊躇なく箱の中の一つにぷすりと刺した。そのまま◎の口元まで持っていく。

淀みない動きに◎は目を見張った。突然目の前に差し出されたチョコに驚いて反射的に身を引く。ピントの合ってない目で輪郭のズレたチョコを見て焦点を合わせた後、勝己を見比べる。

勝己が何かを強制するときは大抵機嫌が悪いが、今は強制というより、構っていると言う方が近い。このプレゼントは勝己なりのご褒美で、与えたからには目の前で食べさせたいという、彼の欲求を感じたからだ。嬉しい。至極嬉しいが、若干照れくさい。
まだ少し戸惑いも残っていたが、このまま待たせては余計に不機嫌になることがよくわかったので、◎は素直に口を開いた。

ぱく、と口に入れて、閉じた唇からピックが抜かれる。口の中で転がして、舌で舐めてその味を確かめる。甘い。今まで食べてきた物の中で一等甘美な食べ物だった。くにゃりと柔らかくてすんなり噛み切れる。咀嚼を続けて、無意識に飲み込むことを考えた直後。

「ん……?」

消えた。
舌で探り、口をもごもごと動かす。しかし既にどこにも固形物の感触がない。先ほどまでは確かに噛めたのに。
ぱちくりと瞬きをして固まった後、◎は勝己を見た。その様子は、餌を見失った犬猫が真顔で飼い主を見上げている姿を彷彿とさせた。間抜け、と不意に笑いそうになるのを堪える。

「……口の中で消えちゃった」

「消えたっつーか、溶けたんだろ」

「え、溶けるの? 食べ物じゃないの?」

「いま食っただろが」

「でも、飲み込んでない」

「そういうモンなんだよ」

「そうなの? 不思議」

驚きが勝ったまま、マグカップを持ってくぴ、と紅茶を飲んだ。

今度は嬉しさよりも好奇心が強い目でチョコを眺め、ピックで生チョコを刺すと自分で口元に持っていく。香りが気に入ったのかやはり匂いを嗅ぐ。口の中に入れる前に舌を出して表面のココアパウダーを舐める。舌から口の中に広げた後、口に入れた。

猫かよ。

食べ物に対する興味の持ち方にそう思う。見てて面白い。
今度は咀嚼せず、口の中で転がしているのがわかった。やがて溶け始めたのか、緩まるように口角が上がる。

「おいしい」

零れた、という笑顔だった。
◎がチョコレートを食べるのは初めてではない。まだ家族と共にいた時に食べたことがある。それでも初めて食べたようなリアクションをするのは、記憶上では未経験だからなのだろう。

彼女の幸福感が勝己の胸の中にまで溶け込んできたようだった。温かく穏やかだ。常に危険に身を置きたい緊張感が今ばかりはどこかへ影を潜め、勝己は黙って◎を見た。瞼が微睡むような心地だった。

口の中のチョコレートが溶け切る前に、◎は箱を勝己の前に押し出した。

「勝己も食べて」

「いらねぇよ。お前が全部食え」

「でもすごく美味しいの」

素直に全部独り占めすればいいものを。いいと思ったものを分け合おうとするのは、自分たちが兄妹のように育った時の名残なのだろうか。
せっかく恥を忍んで買ってきたもので嫌な気持ちになりたくはない。断り続ければ◎は、差し出がましいことをしたと要らぬ反省をするだろう。◎がそうなったら、自分が対応に困ることはわかっていた。

それに、自分だけが嬉しいのは寂しいと、先ほど彼女の口から聞いたばかりだった。

仕方ねえ、という気持ちで一つ取り、口の中に放る。甘い。だが嫌な甘さじゃない。甘いものが好きじゃなくても食べられる味だった。口に何かを入れれば咀嚼するのが常だが、先ほどの◎と同様、口の中で転がして溶けるのを待った。

「美味しい?」

嬉しそうに◎が問う。何故お前が嬉しがるのかと思いつつ、短く「ああ」と返した。だが、勝己にとってはもう充分だった。

ガタと椅子から立ち、テーブルを回って◎の側に立つ。どうしたのかと見上げる◎に合わせてせぐくまり、顎を掴むと唇を合わせた。◎が瞼を開くと同時に、驚きで小さな電気がぱちぱちと落ちる。顔が痺れるような感覚と共に熱くなり、鼓動が早まる。

合わされたままの勝己の唇が薄く開くのに合わせて、◎も口を開いた。唇を優しく食まれた後、伸びてきた舌を迎える。僅かに開いている自分たちの隙間を埋めるように勝己は◎の唇を塞ぎ、自分の口から溶けかけのチョコレートを流し込んだ。

チョコレートの味を感じると共に、◎は己の体が熱を持つのを感じた。勝己の舌が口内に伸び、舌を絡めながらチョコレートを舐める。

その甘さが、味覚とキスの心地よさと繋がり、感度を増した。目蓋を下ろして唇の微睡む感触に集中すると、じんわりと勝己への愛しさが湧く。


好き
と、言葉なく情が湧いた。


きゅうと細い腰が反れて、チョコを舐めるのに夢中になった。時折勝己は吐息の隙間ほど離れて荒れた息を整えた。離れた唇の感触を名残惜しんで口の中でチョコを転がしていると、また優しく唇が降る。

いつもより長い口付けだった。丸みを帯びた固形物はどんどん小さくなっていく。◎の舌の上でチョコが溶けきると、戯れに舌を絡ませた後に勝己が離れる。鼓動が胸を揺らしているのがわかる。微睡む瞳が勝己を映していた。

自分の唇を舐めると味が残っている。勝己が己の唇を親指で拭うと唾液に混ざった黒い汚れがついた。それを◎の口に押し付ける。瞬間、◎は反射的に身を引きかけたが、塞ぐ指に手を添え、それを食んだ。彼女の唇にも同じようについているそれを勝己はまた親指でぐいと拭い、そのまま口の中に押し込む。温かい粘膜の中で指先が丁寧に舐められた。

十分舐めさせた後、勝己は◎の口から指を抜いて、自分もその指を口に入れた。指についた◎の唾液を拭き取る感覚で指を吸う。

「……」

◎はトロとした目でその様子を見上げた。チョコレートが溶けるまで絡めた舌と、唇を強く拭った皮の厚い指の感触が残っている。溶けたチョコがそのまま、体の熱に変わったようだった。

「……もう一回」

強請る声は小さい。内緒話をする時のような囁きだった。
勝己は◎を見下ろし、彼女の顔を見て愉快そうに笑った。あくどい顔だが、嬉しい時の顔だとわかる。

もう一つチョコレートを口に放ると、◎を持ち上げて入れ替わりに自分が座った。膝の上で◎を横抱きにし、口の中へチョコを流す。

時間は緩やかに流れた。ただ触れ合っている唇にだけ意識が向く。互いの口を行き来しているものに夢中になっているのか、柔らかな唇が心地いいのか、どちらを求めているのかわからないほどに混ざり合っていた。

長い時間かけてそれが溶ける間、勝己は堪えきれず◎の体に触れた。悪戯をするようにそっとなぞる。優しい手つきは愛しさだけ動き、◎はそれに膝を寄せたが、その先を望む欲求よりも微睡むような口付けの誘惑の方がまだ強かった。

何もなくなった後も、二人はそのまましばらくキスに溺れた。唇を吸い、チョコレートの味が消えて感触だけの快楽を感じていた。
離れて、また合わせるのを数度繰り返した後、◎は吐息を零した。勝己の影が落ちる下で、紅潮した顔で穏やかな瞳を見上げた。

「……こういう食べ方するものなの……?」

「さァな」

また一つ唇が落ちる。体に腕を回し、ただ触れ合うだけのキスをしたまま時間を止める。静かに離れた後、勝己は◎に額を合わせた。上気した熱を吐き出す。

「お前がいなきゃ食わねえのは間違いねえけどな」

それを聞き、こう悟った。勝己とこの食べ物を共有する時は、こういう食べ方をするのだ。甘く美味で、勝己に触れられる食べ物。これはそれが許されるものなのだ。
嬉しかった。
口元がゆるむ。今なら自分から触れてもいいだろうと、◎は勝己にぎゅうと抱きついた。背中に回った勝己の腕に力が籠もる。

「あとどうすんだ」

テーブルの上に起きっぱなしの箱に視線をやる勝己につられて、◎も残ったチョコレートを見た。◎は少し迷った。全て食べてしまいたい気持ちと、今日だけで終わらせたくない気持ちで葛藤していた。美味しかったが、期待するのはそれとは別だった。

「今日はもう……もったいないから」

惜しげな返答。物足りなさそうな様子だったが、勝己はもう食えとは言わなかった。なんのためにチョコレートを買ったのか、発端の理由などどうでもよくなったからだ。

「明日、また食べる」

そう言って勝己をちらと見る。伺う視線に、何を求められているのか察した。
ひとつまたキスをして、勝己は◎を膝から下ろした。



次にチョコレートを買うときは、もっと苦いものを買おう。
そう決めた。



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