▼30
部屋へと走り込んだ井宿は、大人しく寝台に座ったまま定まらぬ目線を揺らす華を見て息を吐いた。想像していた様子とはだいぶ違い、少しだけ安堵する。
「華ちゃんが、彼氏にフラれた時も……確かこんな感じだった……」
ぴくりと、華が何かに反応したように美朱を見た。
「華ちゃん……?」
その様子に恐る恐る声をかける美朱。華は、美朱の方へと手を伸ばすと
(どこが……痛いの……?)
そう消え入りそうな声で問うた。
「わ、私怪我してないから、大丈夫だよ!」
大丈夫、と態度でも示すように美朱が、華の手を握る。すると、華は、井宿へと視線を向け首を傾げた。
(痛い……?)
「いや、オイラも怪我は……」
(心……傷ついてる)
否定する井宿へ華の手が伸びた。
(ごめんなさい……)
華の手がポケットへ消えた。取り出したのは、小さなナイフ。
「だ!?  そんなものいつから……っ」
(ずっと持ってた。形は違うけど……)
井宿が、華からナイフを奪おうと手を伸ばす。しかし、それよりも早くナイフが、横に滑っていく。
「華ちゃん!」
井宿は、美朱の腕を掴んで己の方へと引っ張った。
華が美朱を斬りつけようとしているように見えたからである。しかし、実際は違い。横に滑ったナイフの切っ先は、華の腕へ。
「華……っ」
ぽたぽた。華の腕から血が滴り落ちた。
(心宿は……これをすると喜んだ。だから……これは、とてもいいことなのだと私は思う。私の望みに近づくとも言った)
井宿と華の間に落ちた血から、黄色い光が溢れ出す。その光は、すうっと美朱を包み込むと、まるで彼女を慈しむように優しく身体の中へと入っていった。
「華、やめるのだ。そんな事をしても誰も喜ばないのだ」
(役に立ったでしょう?  これも多分、四神の神の力だと思うの。それに……)
「させないのだ」
井宿が、今だ血を流す華の腕をつかむ。一瞬だけ華の表情が歪み、瞳がクリアになったかと思われたが再び濁り井宿は、心宿の術の深さを知る。
「美朱ちゃん、ここはオイラに任せてもらえるのだ?」
「四神の神に……頼まれたんだよね。……井宿、お願い」
「任せるのだ」
ぎゅっと美朱が、華の手を握りしめた。そして、そのままくるりと向きを変えると、力強い足取りで部屋から出ていく。
「井宿、私も鬼宿の事頑張る」
出ていく瞬間にぼそっと美朱が呟く。
井宿は、これから来るであろう鬼宿の事を思い自分の手のひらを握りしめる。
そして、扉は閉まり、華の部屋には井宿と華以外いなくなった。





さて、どうするか。と井宿は悩みながら華の腕へ包帯を巻いていた。
とにかく、心宿の術から意識を解き放つ必要があった。幸い、前のように華の気は消えていない。
井宿は、そっと華を刺激しないように隣へと腰掛けると、手を握ったまま口を開いた。
「声……綺麗だったのだ」
(……私、もう何ヶ月も喋ってないけど……)
井宿は、ふと、目を細めた。
「ちゃんとこの耳で聞いたのだ。とても綺麗な声だったのだ」
しかも、その声が呼んだのは自分の七星士名だ。鈴のような軽やかな声が自分の名前を呼んだ。それだけで、井宿はどこか嬉しく思う。
「華、華の願望は知ってるのだ。でも、それを望めば悲しむ人がいることを忘れないで欲しいのだ」
(悲しむ人……)
「例えば美朱ちゃん。彼女はとても華の事を信頼しているのだ。あの唯とかいう子もそうなのだ。そして、オイラだって悲しいのだ」
(美朱……?  美朱は、私と唯を……違う……違う!  変な記憶を混ぜないで!  やめて……っ)
華は、頭の中を支配する偽りの記憶を頭を振って、振り払った。だが執拗に映像は流れてゆく。
しかし、すでに半分以上、心宿の術から自力で立ち直りつつあった華は、その映像を無理やり封じ込めると、泣きそうな顔で井宿を仰ぎ見た。
(なぜ……?)
「だ?」
(私、汚い……だから伊織にも振られたの。そんな私が消えてなぜ、あなたが悲しむの……)
「華は汚くなんかないのだ」
至極真剣な表情で井宿は言う。
井宿は、もう自分が華の術を解くためにこのような事を言ってるのか、わからなくなってきていた。
恋心は、捨ててきたはずだった。あの日、あの時に、あの場所へ。
愛した人の墓元に。
「愛した人……?」
井宿は、驚いたように目を見開くとつけていた面を外した。
(心宿は……美朱が私達を見捨てたと言っていたけど……違う気がしてならない……)
「そんな、オイラは……、俺は……」
華のつぶやきに答えられず、うろたえたように井宿は一つの結論を導き出すと頭を抱えた。無論、すでに心の奥底ではとっくに気づいていた事である。
そんな井宿の様子に、華は首をかしげる。手にしていたナイフは井宿によって取り上げられ、テーブルの上だ。寝台から降りれば手は届く。癒しを求められているような気がして、華寝台から足を出した。
「……人は、変わるものか……。香蘭、いいのだろうか?  俺は……」
変わってはいけないのではないか?  いや、変わっても良い資格など、ないのではないか?  そう胸の内で問いかける。すると、まるで香蘭からの返事のような、声が響いてきて井宿は、すとんと何かがハマるような感覚を覚えた。




『芳准……いいの。私、幸せだったもの。残されたあなたへ、私が望むのは幸せよ。幸せになって芳准』




「華」
ぴくり、と華の身体がこわばった。井宿はなだめるようにゆっくりと、華の手を握る。
「ようやくわかった。俺は、華の事が好きだ。……愛している。俺のために、生きてくれないか?」
なんて都合が良いのだろう。井宿は自虐めいた笑みを浮かべ、ため息をついた。
しかし、自覚した想いは止まらない。止められない。いま、言うべきことではないはずなのに、先程の一声で自分は、既に香蘭を過去の人にしていたことを思い知ってしまった。
寝台から足を出したまま停止した華は、井宿の突然の言葉に首を傾げる。
しかし唐突にぱちくりと、目を瞬かせた華が、ゆっくりと噛みしめるように井宿の言葉を理解した瞬間。
霧が晴れるように華の目から濁りが消え失せた。
心宿がのぞいた心は負の心。心の傷の部分だ。そして暗示をかけたのも、その部分。
どんなに絶望した華であっても、その他の部分では求めていた。
自分を愛し、求めてくれる人をもう一度。
「……ち、ちり……」

しばらく動かしていなかった声帯を必死に動かす。今まで使い方さえ忘れていたのに、再び声を取り戻したのである。


「わた、し……よご、れて……る」
「汚れてなど、いないのだ。……辛いなら無理にしゃべらなくても大丈夫なのだ」
(でも……父親に……っ)
「……っ」
(それに、私、怖いの……捨てられるのが怖い。また、捨てられるのは嫌よ……っ、井宿!)
「捨てないのだ、絶対に」
泣きそうに顔を歪めた華をそっと抱きしめる。
目で見るよりも細いその身体に、井宿はひどく驚いた。折れてしまいそうな程腰も細い。
「ちち、り……」
「だ?」
「わた、しも……うん、そう、みたい……」


(井宿……ありがとう)




外が騒がしくなり、ようやく心宿の術から解き放たれた華は、落ち着く暇もないまま気の乱れを敏感に察知すると瞬時に青ざめた。

(鬼宿の気が……っ、どうしてこんなに乱れているの……っ?)


「鬼宿くんも、どうやら心宿に操られているようなのだ……」
(井宿、今すぐ私を鬼宿のところに連れていってっ)
「だ!?  そんなのダメなのだ! 鬼宿は操られているのだ! 何をするのかわからないのだっ」
(ほっとけない!  美朱が……美朱が傷つく。私以外、もう、傷ついて欲しくないの!)
「それはわかるのだが、さっきまで華も操られていたのだ!  そんな不安定な状態で……」
(お願いっ)
華の必死の願いに、井宿は断る言葉をなくした。



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