外はそぼ降る雨である。
軒下からしきりに垂れる雨水を窓越しにぼんやりと眺めていたリゾットは、ふと目の前に人の気配を感じて視線を窓から移した。
喫茶店の窓側の席。自分の真向かいに女がひとり座って、ポットでカップに紅茶を注いでいる。それを静かな動作で口まで運ぶと、音もなく一口飲んだ。
「……君は、」
「やだ。私の事、忘れちゃったの?」
かちゃり、と食器の音が響く。カップをソーサーに置いて、女はじっとリゾットを見つめた。リゾットも彼女を見つめ返す。微かに口元に浮かべた微笑みに、確かに見覚えがあった。
柔らかいえくぼに、ちらりと覗く糸切り歯。瑞々しい花の匂い。
「……ナマエ……」
「そうよ。酷い人ね、私を忘れるなんて」
「すまない」
「……なんてね。私が忘れてって言ったんですもの。リゾットのせいじゃあないわ」
リゾットと別れる時、自分の事などすぐに忘れてくれ、と言ったのはナマエだった。そんな事出来る筈もないと思っていたのに、人間の記憶というものは良く出来ている。聴覚、視覚、触覚、味覚の順で記憶を失うらしい。そして嗅覚だけは最後まで覚えている。リゾットがほのかに香る香水の匂いにナマエを思い出したのは当然とも言えた。
「ここで何してる?」
「雨宿りよ。外は雨でしょう。これじゃあ何処にも行けないわ」
「……そうか」
「あなたは?ここで何してるの?」
「……さぁ、何してるんだろうな。オレにもよく解らない」
雨の筋が窓ガラスを滑っては繋がり、また離れていく。
思えばいつからここにいるのだろう。どうやってここまで来たのかすら思い出せない。
「あなたはそろそろ帰った方がいいわ」
「帰る?ここが何処で、どうやって来たかも解らないのに?」
「あなたなら帰れるわ」
「ナマエは?一緒に行かないか」
「私はもう少しここに残るわ」
「そうか」
「Arrivederci、リゾット」
「Arrivederci、ナマエ」
リゾットがナマエの姿を振り返りつつ、喫茶店を出た。
降りかかると思われた雨はいつまでもリゾットの上には降ってこなかった。
聞き慣れた声に揺さぶられて、目を開ける。
部屋のデスクで眠っていたリゾットの肩を叩くのはギアッチョだった。
「おい、リゾット」
「……ギアッチョか」
「もうすぐアイツらが帰ってくる」
「そうか」
「……その前にその顔、どうにかした方がいいぜ」
「顔?」
「アンタでも泣く事あるんだな」
ギアッチョは自分の目の下に指をとんとんと当てて言う。リゾットが触れば濡れていた。濡れた指先をぼんやりと見ながら、リゾットはぽつり呟く。
「……ナマエと会ったんだ」
「……ナマエはもう死んだだろうが。夢でも見たんだろ」
「喫茶店で雨宿りしてると言っていた。こんな雨では何処にも行けないから、と。ナマエはあそこでオレが来るのを待ってるのかもしれない」
「だから、夢じゃあねぇのかって。死んだヤツがその後どうなったかなんて誰も知らねぇよ」
ギアッチョが苛立ちを隠そうともせずにドアを蹴破る勢いで部屋を出ていく。
無理もない。今更ナマエの事を持ち出すのは暗黙のルールでタブーになっている。リゾットの恋人だった事を差し引いても、それだけナマエの死はチーム内に暗い影を落とした。
涙の跡を拭いたリゾットはメンバーの集まる部屋へ向かう。今日はこれから報酬の分け前を決めなくてはならない。その事を考えると頭が痛い。
廊下の窓の外を見れば、しとしとと雨が降り始めている。もうナマエの匂いも思い出せない。
その日ソルベとジェラートがアジトに来る事はなく、夜になって雨はどしゃ降りになった。
ティールームは寂しい6月の王国