振り切れた愛しさの行方の後の話



『そういえば、お前もうすぐ誕生日だね』

 某月。
 電話の向こう側の及川の発言を聞き、港は年間カレンダーのある日付に目を止めた。特に印をしているわけでもないが、その日付が印刷されている部分だけは、港にとっては特別なものである。

「覚えてたんだ」
『まぁね』

「光栄に思いなよ」なんて言う及川の声を聞きながら、港はこっそりと息を吐くように笑う。以前、及川の誕生日にお祝いをした後に「そういえばお前の誕生日いつ?」なんて直ぐに聞いてきたくせに、かろうじて覚えていた振りをするつもりらしい。相変らず、自身の本音を誤摩化す癖をやめられない及川を難儀に思いつつも、港は耳に当てている携帯を持ち直した。正直、及川から港の誕生日に何かしてくれるのではないかと期待をしていた。それ程までに、及川はこの前港が準備した誕生日のサプライズを喜んでくれた。
 
『それでさ、お前の誕生日プレゼント何がいいかな〜って考えて、一つ提案なんだけど』
「うん?」
『誕生日の一日、俺がお前の我が儘なんでもきいてあげるよ』
「……どうしたの急に』

 誕生日プレゼントは何がいいのかと聞かれると思っていたのだが、及川は港の予想外の事を口にした。我が儘を何でも聞いてくれる、というのはどういう事なのだろう。そのままの意味で受け取ってもいいのかと不安になるくらいには、及川の負担が大きそうな提案である。

『安心しなよ、ただの気まぐれだから』
「本当に……? 何か企んでるんじゃない?」
『そんなことないって。まぁそんなに言うなら、この話は無かった事にするけど』
「いや、待って。信じる、信じるから」
『……何必死になってるんだよ』

 さっきまで疑っておいて……なんて不満そうな声でそう言った及川ではあったが、港の必死さが可笑しかったのか、電話の向こう側でクスクスと笑う。

『折角の俺の気まぐれだからさ、貴重なこの機会を無駄にしないよう、いろいろ考えておきなよ』

 もしかしたら、私がとんでもない我が儘を言ってこき使うかもしれないとは思わないのだろうか。港がそんな不安にかられるくらいに、及川の声色は優しく、楽しそうだった。そして電話を切った後、港はぼんやりと思考を巡らせる。
 及川が港の我が儘を聞く、ということは、港が頼めばなんでもやってくれるという事なのだろうか。改めて考えてみても、たしかに滅多と無い機会である。どの程度のお願いまで聞いてくれるのだろうか……なんてそわそわと想像を膨らませながら、港は筆箱からシャーペンを取り出した。
 部屋に新しくカラーボックスが二つ欲しい。軽いものだが大きいし、一人で買って帰るのも、往復して買いに行くのも面倒だ。及川に買い物に付き合ってもらって、あわよくば荷物を持ってもらいたい。とりあえず思い浮かんだ事を裏紙にメモし、港はすぐに思いとどまる。これではただの荷物持ちだ。折角の自身の誕生日なのだから、もう少し別の事をお願いしよう。
 何がいいだろうか……なんて考えながら、港は手元のシャーペンに視線を落とす。高校三年の頃、及川がお土産で買ってきてくれたご当地限定品のシャーペンは、未だに港の筆箱の中で現役である。それを握り手を止めたまま、港は視界の端に写った、大学の講義で使用する問題集に目を止める。
 いつだったか、港が及川の家で問題集に書き込んでいる時に、及川が肩に寄りかかってきたことがあった。港より図体の大きい及川は当然ながら重い。しかし、そんな重さよりも触れ合う左半身に気をとられ、港は冷静に考えることができずに手を止めた。それに気付いているのかいないのか、港が手を止めた事で難問に遭遇したと思ったらしい及川は「そんなに難しいの?」なんて言いながら港のノートを覗き込んでいた。
 ああいう、ささいな触れ合いがしたい。ゴクリと息を飲みながら、港はぼんやりと考える。例えば手を繋ぐとか、抱きしめて貰うとか、キスをするとか。お姫様抱っことか……と想像した辺りで撃沈した。意図的にテーブルに頭を一度打ち付け、雑念を払おうとしたものの、港の心の奥底から顔を覗かせた下心は抑えきれない。
 一人で勝手に羞恥に襲われ、苦しんでいるこの状況は何なのだろう。先程電話した時は「何も企んでいない」と言っていた及川だが、あの男の事だ、恐らくそんなはずは無い。これはもしかしなくても、及川の策略なのかもしれない。
 どんな我が儘を言うのか。及川徹という恋人に、ある意味、自分は試されているのかもしれない。



 そして、港の誕生日当日。
 この日はお互いに講義や部活があるため、待ち合わせは夕方頃となった。講義が早く終わった港が及川の大学へ向かい、裏門辺りで待ち合わせた。部活終わりとあってジャージ姿の及川は、港を見つけてヒラリと手を上げた。

「ごめん、お待たせ」
「いいよ、そんなに待ってないし」
「そう、なら良かった」

 ふぅと息をつき、及川は港をまじまじと見てから、ジャージのポケットに手を入れた。何か言いたげな様子の及川が、何を不満に思っているのか、港は既に察している。

「……あのさ、もうお前の誕生日半分以上過ぎちゃったんだけど」
「うん」
「この前言った事忘れてんの?」

 少しだけ呆れた様子の及川の発言は最もである。結局、誕生日当日に待ち合わせをしてはいたが、それだけで港は及川にこれと言った要求をしなかったのだ。正確には、要求できなかったというのが適切である。

「覚えてるよ。ギリギリまで悩んじゃって、及川に何やって貰うか決められなくてさ」
「……で、結局決まったの?」
「うん。及川、これからスーパーに行こう」
「……スーパー?」
「夕飯一緒に作って、一緒に食べよう」

 今日の今日まで、及川に何をしてもらおうかといろいろと考えた。当日会うのが夕方くらいになる事から「何か要望があるなら早めに言ってね」と及川が言ってくれていたが、結局まとまりきらずに今に至る。個人的に手伝って欲しい事、恋人としてやりたい事、さまざま案はあったが、最終的に港の結論は自身でも予想外のところに落ち着いた。夕飯を作って一緒に食べる。ありふれた事のように思えるが、及川と港がそういう関係だからこそ気軽にできる事であり、港が簡単に口にしやすい事だった。

「それだけでいいの?」
「それだけじゃないんだよねぇ、これが」

 ニヤリと港が笑うと、及川は訝しげな顔で首を傾げた。きっとろくでもないことを考えている、とでも思っているのだろうが、その通りである。

 そうしてとりあえず近場のスーパーに寄り、及川が手に取ったカゴを、港が押すカートに乗せた。

「で、有馬さんは夕飯何がいいの?」
「そうだなぁ、ラーメンとハンバーグとカレーとカツ丼と……」
「無理だろ、どんだけ食べるんだよ」

 呆れたような顔をしながら、及川はさり気なく港が手を添えていたカートを攫った。

「一回でいいから、好きなものだらけのご馳走食べてみたかったんだよね。バイキングみたいなやつ」
「……じゃあいっそ、バイキング食べに行けばいいんじゃないの?」
「私の好きなものばっかり並べたご馳走が食べたいの、それにバイキングで牛乳パンなんて置いてないだろうし」
「え? お前も牛乳パン好きだっけ?」
「折角だから、及川も好物あった方がいいでしょ?」
「いやまぁ、そうだけど」

 幼い頃のささやかな夢だった。家族で夕飯を食べに行った時、オムライスかカレーかハンバーグか、どれも食べたくてなかなか一つに選ぶ事ができなかった。いつか、自分の好きなものを好きなだけ並べて食べたいな、なんて懐かしい記憶を思い出したのは昨日の事である。大学生になった今、バイトでお金も稼げるという状況、少しの贅沢にだって手が届くのだ。

「いろんな料理を少しずつ作れば食べられるでしょ、余ったら及川の家の保存食にしていいから」
「……いいけどさぁ」

 ポイポイと投げ込まれる食材の数々に、及川は手持が不安になり、さり気なく財布をスポーツバッグから取り出した。彼女の我が儘を聞くと言った手前、もしお金が足りないとなったら格好悪い事この上ない。それなりの金額を持ってきた事を再度確認してから、及川は尚も増えるカゴの中身に視線を落とす。

「焼き肉も食べよう、焼き肉」
「は? ……いやまぁ、焼き肉プレートうちにあるけどさぁ」

 手頃な値段の肉を手に取り、港は満足げにカゴの中に放り込んだ。肉を確保したので次は調味料だと、港はなんとなく及川を見上げる。

「及川、焼き肉のたれ取ってきてよ」
「……あぁ」

 分かった、と頷いた及川はそのまま港にカートを預け、背中を向けてスタスタと歩いて行った。頼んでも頼みを聞いてくれないわけではないが、こんなに素直に及川が頷き、たれを取りに行ってくれるのは新鮮である。それに妙な感動を覚えた港はゴクリと息を飲み、焼き肉のたれを持って帰ってきた及川に、試しにもう一度頼み事を伝える。

「及川、たまごも一パック欲しいんだけど……」
「分かった」

 コクリと頷いた及川は、再び港に背を向けてからたまごが置いてあるコーナーの方に向かい、パックを持って戻ってきた。普段ならこれくらい頼んだら「まとめて言えよ」くらい言いそうである。しかし、たまごをカゴに入れた及川は、特に小言を言うでもなく「次は何がいるの?」と港に聞いてくる。
 その後に二度、及川に使い走りを頼んだが、全て文句の一つもなく遂行された。

「及川……どうかしたの?」
「どうもしてないよ」
「いや、だって……これじゃパシリみたい……」
「パシリじゃないから、何なんだよお前」

 驚愕の表情を浮かべつつ、動揺が隠せていない港の様子を見て、及川は盛大にため息をついた。親切にしたのに何故こんなにも驚かれなければいけないのか、と微妙な表情を浮かべたものの、日頃の自分の行いのせいであると分かっているが故に、及川もこれ以上強く言う事ができない。

「言ったでしょ、お前の誕生日だから我が儘きいてあげるって」
「そ、そうだけどさ……」

 普段よりも随分と聞き分けの良い及川は、不服そうな顔をしているが、少しだけ恥ずかしそうだった。そんな居心地が悪そうにするくらいなら、そんな無理をしなくてもいいのに。港はやや首を傾げながら、困ったように口を開いた。

「無理しなくていいよ、及川」

 及川を気遣っての発言ではあったが、及川は港の言葉が気に食わなかったらしく、カートに手を添えて唸るようなため息をついた。そしていつも通りというべきか、微妙に眉間に皺を寄せてから、及川は呆れたように口を開く。

「あのさぁ……何で俺がこんなことやってると思ってるの?」
「えっ」
「一応聞くけどさ、俺が何で、お前と付き合ってると思ってるわけ?」
「え?」
「言ってみなよ」

 分かってるよね? と言わんばかりに、及川はカゴの中に入れていた人参を手に取り、港に突きつけた。食べ物をそんな風に扱うのはどうかと思うが、この雰囲気でそんな事が言えるはずも無く、港はコクリと息を飲んだ。人参をこちらに向けている及川ではあるが、表情と口調は真剣そのものだ。

「私の事……好きだから……?」

 この質問をされるのは一体何度目だろうとは思うが、自分で言っていて恥ずかしくなってきた。これを言わせる及川も恥ずかしいはずなのに、何故かムスッとした表情で港を見下ろしている。港の首元に突きつけられた人参は、微動だにしない。

「それで、お前も俺が好きなんでしょ?」
「はい……」
「お前は俺に、優しくしたいとか、甘えられたいとか思わないわけ?」
「えっ……いや、うん……思います」
「でしょ? だから俺もそうしてるんだよ、分かれよ」

 首元を軽く刺す人参をゆっくりと離し、及川はそれをカゴに入れてから、港を置いてスタスタと歩いて行く。向かっている方向からするに、お菓子コーナーでつまめるものを買うつもりなのだろう。そんな及川の背を眺めながら、港はポカンとして立ち尽くす。及川の発言を何度か頭の中で繰り返し、その意味の解釈が合っているのかも同時に確認する。好きな相手には優しくしたいし、甘えられたいと思う。及川を好きだと気付いた時には、及川を無意識に思いやるようになっていたし、付き合い始めてからたまに及川が港にスキンシップを計る時も、死ぬ程緊張をするが、内心ドキドキとして嬉しかった。
 及川もそうだと言いたいのだろうか。及川も私に優しくしたいとか、甘えられたいと思っているという事なのだろうか。港の脳裏に、今日まで散々に悩んでいた事がポロポロと思い浮かぶ。恥ずかしくて口にするつもりの無かった、恋人としてのお願い、我が儘。甘えるという事に値する行為。及川は暗に、それを言ってもいいのだと言いたいのだろうか。それを要求しろと、言いたいのだろうか。
 口を少しだけ開いた後、緩く閉じてから港は及川の後を追った。カラカラと控えめな音を立てながらカートを押す及川は、追いかけてきた港にチラリと視線を寄越す。

「及川」
「何」
「ちょっと、おでこだして」
「…………熱は無いよ」

 少し期待していたらしい及川だったが、未だに信じられない……と言いたげな表情を浮かべ、体調不良を確認してくる港に脱力した。「何なんだよ本当に、お前彼女じゃなかったらほっぺ抓ってるからな」などと文句を言う及川ではあるが、彼女になってから港は何度か及川に頬を抓られた事があるので、発言に全く説得力が無かった。



 なんだかんだありつつも、無事買い物を済ませた二人は、重たい荷物を抱えて及川の家に帰宅した。ドサリと買い物袋をテーブルの上に置き、中から食材を取り出しながら、料理を作る順番を決める事にした。何せ今回は一つの料理の分量は少ないものの、品数は非常に多い。効率のよい順番で、料理の仕上がりの時間も考慮しながら調理を進めるとなると、打ち合わせは必須である。とりあえず何を作るか書き出し、手順を決めてから下準備に入ることにした。ひとまず港が必要な野菜の皮を剥き、及川がそれを包丁で切っていく。

「というか、こんな事でいいの?」
「何が?」
「お前の頼み事だよ。何なら俺が夕飯作るけど」
「いいよ、一緒に作った方が早いでしょ」

 そうでなくても品数が多いのだ。及川一人に作らせて、自分は呑気に座って待つというのは忍びない。それに港にとっては、ささやかな楽しみでもある。こうして一緒にキッチンに立ってご飯を作るなんて、まるで夫婦みたいじゃないか。そんな密やかな港の下心が表に現れ、へへと口元を緩めたのを見逃さなかった及川は、視線をまな板の上の野菜に戻してから「ふーん?」と口端を上げる。

「もしかしてさ」
「うん?」
「夫婦みたいとか思ってる?」

 唐突に核心を突く及川に不意を打たれ、港はピーラーを動かす手を止めた。返す言葉も無く無言になった港をよそに、及川は平然と野菜を切っていく。トントントン、とまな板に刃が落ちる音を聞きながら、港は必死に言い訳を考えるが、あまりの羞恥に居たたまれず頭が真っ白になってしまった。こういう時、この男の察しの良さが本当に憎い。そして返答次第で上手く誤摩化すことができたにも関わらず、それができなかった自分の鈍臭さにも頭が痛い。

「お前のそういうところ、可愛いと思うよ」

 字面だけ見れば嬉しい言葉であるが、発言する及川の顔は半笑いである。笑いを堪えているのか顔をやや背ける及川に睨みをきかせるが、当の及川は愉快そうにしているだけだった。他の事に気を取られているにも関わらず、まな板の上のじゃがいもは綺麗に切られている。この器用さがこの男の人間性を現しているようで、港は己の手の中の人参に視線を落とす。手の中の人参はピーラーを使ったお陰で比較的綺麗に皮むきができているが、身を削り過ぎているような気がしないでもない。

「奥さん、切る野菜無くなったよ」

 港が微妙に眉間に皺を寄せ人参に気を取られていると、及川は港の腕を軽く肘で突いて「早く皮をむけ」と急かした。奥さん、と及川の口から吐き出された言葉に正直動揺したが、平静を装って港は隣の男を横目で見上げた。及川は平素と変わらぬ様子で、切ったじゃがいもをボウルに移している。こういう雰囲気に慣れているからなのか、内心ガチリと固まっている港とは対称的に余裕があり、ゆったりとしていた。
 港をからかうための軽い冗談で、大して深い意味があるわけではないのは分かっている。しかし、港は妙な高揚感を抱かずにはいられず、それを誤摩化すために目の前の人参の皮むきを再開した。
 「奥さん」なんて、小さい頃にやったママゴトですら言われた事が無い。そもそも奥さん役になる事が滅多に無いくらいには落ち着きがなかったので、しょうがないと言えばしょうがない。しかし、今の自分の浮かれ具合から、少なからずそう言われてみたいと、憧れていたのかもしれない。
 きっと今の及川の発言は意図的ではない。無意識に港の密やかな憧れを叶えてくれる及川に、港は一種の恐ろしさを覚えた。なんて男だ、どんな生活をしていたらサラッとこういう事ができるのだろう。
 嬉しいのにそれを素直に受け止めるのが悔しくて、港は皮をむいた人参を確認してから、わざと及川の頬に突き刺すように持ち上げた。

「はい、旦那様」
「ちょ、いひゃい……」

 人参を押し込まれたせいで柔らかい頬がむにりと凹み、及川も地味に痛かったらしいが、港も港で照れ隠しをやめられない。相変らずというべきか、どっちもどっちである。


 こうして、なんだかんだくだらない話をしながら、時間はかかったものの夕飯が完成した。
 及川の家の食器の数は限られているため、一つの皿にいろんな料理を乗せざるを得ず、混沌としている。最初の頃は、小さいオムライスを作ってお皿の真ん中に置き「なんかフランス料理みたいじゃない?」とフランス料理など食べに行った事のない二人で話していたが、最終的にはバイキングで好きな食べ物を山盛り皿に乗せた状態になってしまった。品数が異常に多いご馳走を眺めながら、及川は感慨深げに携帯を取り出し、カシャリと写真を収めた。

「これ、全部食べきる自信ある?」
「無い」
「はは、これやりたいって言った人の言葉とは思えないね」

 微妙に呆れた顔をする及川は、携帯を机の上に適当に置いてから、ゆるりと座布団の上に腰を下ろした。それに習って港も及川の正面に座り、目の前のテーブルに広がる料理に喉を鳴らす。並べられた料理の端から端まで、全て港の好物で構成された夕飯に、港は早速どれから手をつけようかと迷い始める。

「どうしよう、全部美味しそう」
「……美味しいだろうから落ち着きなよ」

 そわそわとしている港を捕えて、及川はクスクスと笑いながら手を合わせた。夕飯を作り始めてから随分と経ってしまったため、二人共それなりに空腹である。早く目の前のご飯を食べたいと思うのは、及川も同じである。ちゃっかり及川の席に一番近いところに、パン屋で買った牛乳パン(を並べただけのもの)を置いているのが良い例だ。
 そうして二人は手を合わせてから、ようやく夕飯にありついた。どれも好物ばかりで逆に何を食べるか迷った港は、とりあえず端から順番に食べていくことにした。それぞれの料理が少量ずつしか食べられないというのが難点ではあるが、テーブルの上のものを全てを食べるとなると胃が苦しくなるので仕方がない。及川はご飯メドレーよろしく、ご飯を小さい器に盛ってからカツを乗せてカツ丼にして食べ、またご飯を盛ってカレーをかけて食べ、刺身を乗せて海鮮丼にして食べ……となんだかんだ満喫している様子である。

「子供の頃の夢が叶ったよ、ありがとう及川」
「それは良かった」

 もぐもぐとご飯を食べながら頷いた及川は、先程作ったミニ海鮮丼を平らげ、今度は肉に手を伸ばした。テーブルの真ん中に置いた焼き肉プレートに肉を並べて焼きながら、何気なく口を開く。

「他には無いの?」
「え?」
「俺にやって貰いたい事」

 今日だけだからね、なんて言いながら、及川は意味ありげに目を細めた。瞬間、港は自身の首元に何かが巻き付けられたかのように錯覚する。口の中にあった唐揚げを飲み込みながら、港はうっすらと予感し、及川の意図をたぐろうと思考を巡らせる。長年の付き合いと言ってもいいのか分からないが、及川はやはり、何か企んでいるような気がする。

「厳密に言えば、今日だけというわけでも無いんだけど」

 何気なく肩を竦ませてみてから、及川はたれの中に焼いた肉を浸けてからそれを口に運んだ。手元には白いご飯が盛られたお茶碗があるので、未だにご飯メドレーは続いているようだ。そんな及川の様子を眺めながら、港は先程の及川の言葉の意味を考える。今日は港の誕生日だ、だからこそ及川は数週間前に「一日、我が儘をきいてあげる」と言った。それなのに、厳密に言えば「それは今日だけではない」と言う。一体どういう事なのか、ちまちまと焼きそばを食べながら、港はふとスーパーでの及川の発言を思い出した。
 「お前は、俺に優しくしたいとか、甘えられたいとか思わないわけ?」なんて不機嫌そうに人参を突きつけてきた及川は、察しの悪い港に「分かれよ」と言った。その質問に対しての港の答えは、イエスである。及川にポンポンと頭を撫でられたり、スキンシップを図るように触られたりするのは嬉しい。そしてその話は裏を返せば、及川も港に対してそう思っているという事になる。港に優しくしたい、甘えられたい、遠回しにそう言いたかったのは分かったが、改めて考えてみると凄まじい口説き文句である。ストレートに言われなくて良かったと、港はこの時ばかりは及川の回りくどさに感謝した。

「まぁ、他に何か要求あるなら早めに言ってね、俺の気が変わらないうちに」
「…………」

 本当はそんな事を思っていないくせに、及川は黙々と肉を焼き、それをたれの入った皿に取ってから港の方に差し出した。それを慌てて受け取り、港は皿の中の美味しそうな肉に視線を落とす。いつもなら目の前の好物に意識を持っていかれてもいいのだが、正面に座るの男の発言に翻弄されているせいで集中できない。
 及川は港に、我が儘を言えと言いたいわけではないのだ。恋人として港に甘えられたいからこそ、そこに誘導しているだけである。しかし、港が『我が儘』を言いやすい状況を整えているこの男の懐に飛び込むには、少しだけ心の準備が必要だ。

「食べないの?」

 焼き肉を目の前に動きを止め、何故か呼吸を整えている港に気付いて、及川は不審な顔をする。何をやっているんだ? と顔に書いてあったが、その原因を作り出しているのは及川自身である。眉間に微妙に皺を寄せて、己の彼女の奇行を眺めている及川は相変らず整った顔をしている。こんなに見た目が整っていて、スポーツもできて、女の子にも人気があって、自信も余裕もあるはずのこの男が、港に「甘えてきなよ」とストレートに言えないのが、難儀で、愛おしい。
 もしかしたら、私は及川にとって特別なのかもしれない。そんな今更な事に改めて気付いてしまい、港は気恥ずかしくて直視できなかった『我が儘』を、頭の片隅から引っ張りだした。

「……及川」
「何?」
「……キスしたい、かも」

 たれの入ったお皿から肉を持ち上げた及川は、港の発言に驚いたようで、ピタリと静止した。箸に挟まれ、持ち上げられている肉からは、たれがポタポタと落ちている。とても正面に座る及川の顔が見られず、俯いている港を凝視しながら、及川はポカンとしていた。

「……今言うの?」
「えっ? だって……及川、何かあるなら言えって言ったじゃん」
「いや、言ったけど……別にこれ食べた後でも良かったんじゃない? ムードとか考えなよ、今肉食べてるんだよ?」

 そんな空気じゃないじゃん。本当に驚いた様子の及川を正面に捕え、港はあまりの羞恥に、穴があったら入りたくなった。及川の言う事が最もであったために、受けるダメージが凄まじい。

「やっぱり今のナシ!」
「えぇ?」
「聞かなかったことにして」
「やだよ」

 自棄になって肉を食べ始めた港を眺めながら、及川はお腹をかかえて笑いはじめた。真っ赤になってご飯を食べている港が面白かったのもあるだろうが、何より港が「そういうお願い」をして自爆してしまったのが可笑しかったらしい。そうしてひとしきり笑った後、及川は取り皿を置いておもむろに立ち上がった。何をするつもりなのかと身構えた港ではあったが、及川は港の横を通り過ぎ、ベッド近くにあるクローゼットから紙袋を取り出した。そしてそれを持ったまま港の背後にあるベッドに腰掛け、それを差し出した。

「はい、これ」
「え? ……何これ」
「何って、プレゼント。誕生日おめでとう」

 及川の手にある小ぶりの紙袋には見覚えがあり、港はご飯を運ぶ手を止めた。落ち着いた紺色の紙袋には、港のよく知る店のロゴが印刷されている。忘れもしない前回の及川の誕生日の時に、港がプレゼントした財布が入っていた紙袋と同じものである。取手部分にリボンが巻かれているところだけは違うものの、どこからどう見ても、港が通っていた工房のものだ。

「えっ……我が儘聞いてくれるのが誕生日プレゼントなんじゃないの?」
「それだけなわけないでしょ」

 嘘。呆然としながら、及川から紙袋を受け取り、港は中に入っている箱に視線を落とす。グレーの肌触りの良い箱には、クリーム色のリボンが巻かれている。

「この前、お前が俺にくれた財布を作ってる店を見つけたんだ。ついでに、店長さんとも話したんだけど、お前の事よく覚えてたよ」

 その店長は、間違いなく港が店に通っていた時に対応をしてくれた人である。てっきり店員さんだと思っていたのだが、どうやら彼が店長らしい。ということは、港が及川にプレゼントしたあの財布を作ったのは彼である。その事実を今更知り、港はもはや言葉も出ない。

「それで、俺の誕生日のためにお前がどれくらい頑張ってたか改めて聞いたよ。まぁ財布に入ってた手紙にも書いてあったから、ある程度知ってたけどさ」
「……」
「その話聞いたら、俺もお前にあげようかなって」

 ベッドに腰掛けたまま、及川は自身の膝に肘をついて、固まっている港の様子を窺う。現実が上手く飲み込めていない港が、ゆるりと現実に向き合っていく様を眺めるのが面白いらしく、楽しげで、そして慈しむようだった。

「結構したんじゃないの?」
「そうだね、でもお互い様でしょ」

 お前もバイト頑張ってたみたいだし、なんて何でも無いように及川が言うものだから、港は思わず立ち上がる。そうして振り返った港を見上げ、及川はキョトンとしながら「あれ?」と首を傾げた。港は今自分がどんな顔をしているのか良く分からないが、眉間に皺を寄せ、口元がへの字に曲がっているのだけは分かった。よほど恐ろしい顔をしていたのか、及川は口元を引きつらせている。
 そうして港がゆらりと動くと、及川は肩をビクつかせて身構えた。先程までの余裕のあった態度はどこへやら、目の前に立つ港の不穏な様子に戸惑っている及川は、なんだか可笑しい。

「……馬鹿だなぁ」

 何をそんなに身構えているのだろう、と思って及川にかけた言葉は、及川が港に良く言う言葉でもあった。あぁ、及川はいつもこんな心境なのか。そんな事をぼんやりと考えながら、港は座っている及川の足の間、ベッド部分に膝をつき、及川を抱きしめた。普段は及川の胸や肩に顔を埋める事が多い港ではあるが、今は及川の顔が港の胸元あたりにある状況である。自分を抱きしめてくれる及川は、いつもこういう感じなんだろうか。港がじわりと及川に体重をかけると、及川がコクリと息を飲んだ。

「ありがとう」
「……どういたしまして」

 港の胸元に顔を埋め、及川は港の腰に腕を回してから、フッと息を吐いた。港が怒っているわけではないと分かって安堵してから、ゆるやかに重みをかけてくる恋人を座ったまま支える。

「というか、ごめん。我が儘聞いてくれるのがプレゼントだと思ってたから、今日私スーパーで結構買い物しちゃって」
「そうだね、お前遠慮なかったね」

 ハハハと笑う及川ではあるが、声色から苦笑いを浮かべていることが顔を見なくても分かった。スーパーでの買い物を奢ってくれた及川に本当に申し訳ないと思いつつ、港は後でお金を払おうと決めた。その決意が表に現れてしまい、港がぎゅうと及川の頭を抱き込んだものだから、及川は少しだけ息苦しそうである。

「有馬さん、ちょっと力強いんですけど……」
「…………」
「ねぇ、聞いてる奥さん?」

 先程料理を作っていた時のごっこ遊びのネタを未だに引っ張るらしい及川は、それでも尚力を緩める様子の無い港の背中をポンポンと叩いた。それに対し「聞いてる」と頷いて腕の力を緩めた港ではあるが、その緩みがあまりにも微細すぎて及川が吹き出した。ブフッと港の胸元で籠ったような笑い声を上げてからひとしきり肩を震わせた後、及川は港の腰に腕を回したまま背後のベッドに背中から倒れ込んだ。急に前のめりになり慌てた港ではあったが、及川に道連れにされてそのまま一緒にベッドに沈んだ。完全に及川に乗りかかるような体勢になり、急いでベッドに手をついて体を持ち上げる。しかし、今度は自分が及川を組み敷くような体勢になっている事に気付いて、港は少しだけ動揺した。ベッドに倒れ込んだ及川の頭を挟み込むようについた自身の手、そしてその真ん中で微笑む及川の光景が新鮮で呆気にとられた。しかし、及川はそんな事などおかまい無しに港の頬に手を滑らせ、自身に引き寄せる。ああ、キスをしようとしている。そんなことをぼんやりと脳裏に過らせながら、港もゆるりと目を閉じた。
 部屋の中では、先程食べていた焼き肉の匂いが漂っている。こんな中でキスをするなんて、及川だってムードもへったくれも無いじゃないか。そうして唇を重ねようとした瞬間、港はある事に気付いて、慌てて及川の顔から距離を取った。

「……えっ、何?」
「待って、今私焼き肉臭い」
「……それを言ったら俺もなんだけど」

 先程まで焼き肉を食べていたから当然である。このままキスをしたら、息が臭いのではないだろうか。不安になった港は自身の口に手を当て、少しだけ臭いをかいでみるが、室内の焼き肉の臭いが強すぎて良く分からない。港の様子を見ていた及川も不安になったのか、自身の口元に手をあてて、スンと鼻を鳴らした。

「……うがいする?」
「……キスを一旦やめるっていう選択肢はないの?」
「ない」

 「お腹いっぱいだし、どうせもう夕飯も食べられない頃だから丁度いいでしょ」と鋭い事を言いつつ、及川は港を抱き寄せながら上半身を起こした。先程まで及川の頭を抱え込んでいた港は、今度は及川の肩口に顔を埋めるような体勢になる。ああ、やっぱりこの方が落ち着くかもしれない。そうやって寄りかかっている港に気付いて、及川は港の耳元で囁く。

「キスしたいんでしょ」

 港が先程口にした『我が儘』を、及川は実行しようと言う。しかし、トントンと背中を叩かれながら洗面所に誘導されるのはどういう事だろう。うがいついでに歯も磨いておこうかという話になり、及川に新品の歯ブラシを一本貰った港は、それに歯磨き粉をつけて口に入れる。
 シャコシャコと歯を磨く音だけが響く洗面所で、二人して鏡越しに視線を合わせる。私たちは今、キスをするために歯を磨いている。ささやかな色っぽい行為を控えている恋人同士とは思えぬ、間抜けな絵面である。

「何やってるんだろ」
「確かに」

 提案した及川ですら苦笑いを浮かべる始末である。ムードを考えろと言ったのは一体誰だっただろうか。じとりと隣の男を見上げると、及川は少しだけ可笑しそうに口元を緩めた。

「俺達いつもこんなだね」
「……そうだね」

 いつになったら、普通の恋人のように甘い空気を纏えるのだろう。この前街中ですれ違ったカップルは、公衆の面前だろうと平然と腕を組み、イチャイチャとしていた。あそこまでとは言わないが、まるで二人でくっついている事が自然体だとばかりに歩いていたあの二人を、正直羨ましいとも思った。いつか私も、及川とあんな風になるのだろうか。なれるのだろうか。
 口の中のものを吐き出し、うがいをして口の中がスッキリとした港は、舌で自身の歯をなぞる。歯磨き粉特有のミントのスッとした爽快感が口の中にあるため良く分からないが、きっと焼き肉の臭いは無くなったはずだ。
 それを確かめて「うん……」と一人頷いた港は、現在うがいをしている及川を見上げる。及川がうがいを終わらせて、部屋に戻ってからキスをしてくれるのだろうか。もしかしたら、そのままベッドに沈む事になるかもしれない。それならお風呂にも入っておいた方が良かっただろうか。しかし、今お風呂に入りたいと言ったら意識している事がバレバレだ。どうしよう……と勝手に一人で悶々としはじめたタイミングで、及川はうがいを終え、口元を手で拭った。
 これでキスをする準備が整ってしまった。途端にドキドキとしはじめた港は、心の準備をしようと息を整える。いつきても大丈夫だと、フー……と細い息を吐き出した刹那、洗面台の前に立っていた及川に振り向き様に唇を塞がれ、心の準備は不完全なまま終わってしまった。
 最初は唇を重ねるだけ、そして次は容赦なく舌を入れられ、控えめな水音が洗面所に響いた。あまりに性急な及川に慌てた港ではあるが、自身の舌と共に及川に思考まで絡めとられ、唇を甘受する他ない。ほんの少しだけ歯磨き粉の味がした気がしたが、もはや頭も心も、身体もそれどころではない。籠った息づかいを至近距離でぶつけ、港はうっとりと目を細める。
 及川はいつもこんな風ではない。そうして、急に切り替えたように港の唇を食む及川の後ろ姿を鏡越しに捕えて、港はゾクリとした。港の背に合わせ、及川が覗き込むようにキスをしているせいで、鏡に写り込んだ自分たちが確認できてしまうのだ。
 私はいつもこんな風に及川にキスをされているのか。頬に手を添えられて、鼻同士がぶつからないように角度を変えながら、息継ぎをしながら、顔を押し付けるようにして夢中で貪っているのか。鏡に写る及川の背には、港の両腕がまるですがるように、ねだるように回されている。自分はこんな風に求めたりするような人間だっただろうか。一体いつから、こんな風に作り変えられてしまったのだろう。
 先程、及川が口にした言葉が脳裏を過る。俺達いつもこんなだね、なんて、一体どこを基準にした話なのだろう。

「……やっぱり、焼き肉の匂いするなぁ」

 キスの合間で、及川はクスクスと笑いながらそんな事を口にした。
 行為の最中の及川は、まるで港の知らない男のようである。しかし、港はすでにその男を知ってしまった。そして今、悪戯っぽく笑っている及川徹という男のことも、ずっと前から知っている。

「きっと服の方に匂いがついてるんだよ」
「やっぱり? 歯磨きの意味あんまり無かったなぁ」

 まぁいいか、と切り替え、当たり前のように港の首筋に唇を這わせはじめた及川のこの行動も、いつか『いつものこと』になるのかもしれない。

「……で、他に俺にして欲しい事あるんじゃないの?」

 言ってみなよ、なんて言う及川は、相変らず誘導尋問が好きらしい。

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