及川徹とは高校時代からの付き合いではある。及川は顔が整っていて、運動もできて、故に女子に人気があるというのは愚問というレベルの衆知の事実である。だからこそ、港は及川と仲が悪かった高校二年当時から、奴の誕生日と言うものを把握していた。

『俺来月誕生日なんだよね〜』

 電話越しにそう言う及川の言葉に、港は心の内で「知ってる」と一人ごちる。及川の誕生日には、体育館にバレーの練習の見学に来る女子の人数も多かったし、練習終わりに「お誕生日おめでとうございます」なんて言いながら差し入れを渡している姿も見たことがある。しかし、素直に知っていると言うと及川が調子に乗ったことを言いそうなので、港は知らない振りで返事をする。

「そうなんだ、おめでとう」
『えぇ……仮にも彼氏の誕生日なのに、その反応はそっけなさ過ぎでしょ』

 突然及川が電話をかけてきたものだから何かと思えば、どうやら自身の誕生日の事を港に伝えておきたかったらしい。港の方は一方的に及川の誕生日を知ってはいたが、及川の方は港がそれを知っているか不安だったのだろう。

「そんなに祝って貰いたいの?」
『うん。だってお祝いされるの嬉しいじゃん』

 思いの外素直な事を言うな、とこの時の港はある意味感心した。普段港の前では、わりと天の邪鬼な態度の及川がたまに見せる、こういう真直ぐな素直さに港は虚をつかれる。まるで純粋無垢な子供のようだ。

「……分かった、何かお祝い考えとくよ」
『本当? あんまり期待しないように、期待してるよ』

 純粋無垢な子供のようだ、と内心で感心してから間髪入れず、早速からかい文句を混ぜてくる辺りは流石である。訂正して、港の中で「ただのくそガキ」という評価に落ち着いた事など知らない及川は、電話の向こうで楽しそうに笑っていた。
 こうして、及川の誕生日に何かをすると宣言した港ではあったが、早速壁にぶち当たった。プレゼントは、どんなものがいいのだろう。及川と恋人になってから、はじめて迎える及川の誕生日であるということもあるが、そもそも港にとっては「はじめての彼氏の誕生日」でもある。当然、港には経験や知識も無い。世の彼女達は、彼氏にどんなものをプレゼントするのだろう。まずはプレゼントから決めなくては、と思い至ったが早いが、及川との電話の後数分でパソコンを立ち上げる。とりあえず「彼氏」「プレゼント」とありきたりのワードで検索をかけて、画面に映る候補達に目を通す。時計、財布、おそろいのネックレス、ブレスレット……など、わりとイメージ通りのプレゼント候補達に、港は何故か自分の感覚がズレていなかった事に安堵する。この辺りのものを渡しておけば間違いないかとメモをとりつつ、港は他に何か無いかと思考を巡らせる。及川と言えばバレーであるので、バレーに関連するプレゼントもいいかもしれない。そうして思いつく限りのプレゼント案を紙に書き出し、港は改めてカレンダーを確認する。及川の誕生日は来月と言えど、すでに一ヶ月を切っている。それでもまだ時間はある方だと思い、とりあえず大丈夫かと安堵した港だったが、翌日大学へ行って予想外の事を知らされる事になった。

「港の彼氏、もうすぐ誕生日なんでしょ?」
「えっ……何で知ってるの?」

 一限目の講義も終わり、次の教室へ移動して席についた途端、大学の友人が思わぬ事を口にした。

「この前、駅でナンパされてたの見かけたの。何人かの女の人に『ファンです。今度誕生日なんですよね? 当日の試合応援に行きます〜』とか言われてたよ」
「……」

 ここで港は、及川の誕生日当日にバレーの試合があるという事を知った。及川の誕生日当日、一緒にどこかへ遊びに行きがてらプレゼントを渡せばいいか……と昨日考えた安易なプランはどうやら使えないらしい。その事実に固まっている港を見て、どうやら友人は港がショックを受けていると勘違いしたらしい。自身の失言にハッとして「いやでも、港の彼氏凄くあっさりした対応だったよ」と必死にフォローを入れる友人を他所に、港は及川の誕生日にどうやってプレゼントを渡そうかと考える。バレーの試合があると言えど、流石に夕方くらいには切り上がるだろう。夕飯を一緒に食べるついでにプレゼントを渡すのが一番良いのでは……? と見当をつけた辺りで、港はゆるりと顔を上げる。未だに慌てた様子でフォローを入れていた友人に「いつものことだから」と言って落ち着かせ、港は早速及川に電話をする事にした。誕生日の日程を聞き出し、あわよくば欲しいものも聞いてしまおう。

『お前、昨日の今日で行動早いね』
「うん。忘れないうちにね」
『忘れるなよ』

 全く……と電話越しにも呆れた様子の及川ではあったが、少しだけ嬉しそうに笑っているような気配を感じた。なんだかんだ言って、お祝いされるのは及川も嬉しいのだろう。きっと今だらしない顔をしているんじゃないか、という港の予想は見事に的中していたらしく、電話口の及川の後方から「及川君ニヤニヤしないでくださ〜い」というヤジが聞こえた。そのヤジに対し、及川は「うっさいな!」と言い返す。

『……でさ、昨日は言わなかったんだけど、俺誕生日に交流試合があって……』
「知ってるよ」
『えっ……知ってたの?なんで?』
「友達から聞いた」
『?』

 まさか自身がナンパされていたところを港の友人に目撃されていたとは、及川は夢にも思わないだろう。及川は何やら気にしていたようだったが、港は適当に話をはぐらかし、及川の予定の詳細を尋ねる。

「試合って何時に終わるの?」
『夕方5時には終わるよ。ただ、県外に遠征するから、実際こっちに戻って来るのは7時くらいになりそうだけど』
「そっか……それじゃあ私、その日夕飯作って待ってるから、練習試合終わったら家においでよ」

 当日、きっと練習試合で疲れているだろうし、お腹も空いているだろう。だからこそ、頑張ってごちそうでも作ろうか…と照れくさげに提案した港ではあったが、及川は「えっ」と驚きの声を上げる。

『お前料理できるの?』
「……」

 いくらなんでも失礼過ぎやしないか、と港は口元を引きつらせた。これでも一人暮らしをしている身であり、自炊だってする。そんな事は及川だって知っているはずだ。その上での子の発言は、ほぼ100%、奴の憎まれ口である。

「……やっぱり夕飯作るのやめる」
『嘘、冗談だって!』

 じとりとした口調で港が言うと、及川は今更慌てたように弁解する。普段は憎まれ口を叩いた後、弁解するまで時間をかける事が多いというのに珍しい。そもそも、謝るくらいならからかうなと言いたいところではあるが、及川も及川で複雑らしい。

『ごめん……今ちょっとどういう反応すればいいか迷ったというか……』
「……」
『俺の周りで友達が聞き耳をたてているというか……』
「……え?」

 周りで聞き耳をたてている、というワードでなんとなく及川の今の状況を察し、港は苦笑いを浮かべた。きっと彼女と電話している及川の話の内容を、野次馬よろしく盗み聞きしようとしている友人が傍にいるらしい。言われてみれば、及川の言葉の影でコソコソと話し声のようなものが聞こえる。及川もなんとなく、ちょっとした煩わしさのようなものを抑え込んでいる様子が伺える。

『……まぁいいや。試合終わったらすぐにお前の家に行くから、ごちそう作って待っててよ!』

 それじゃあね! と言い残し、及川は自棄気味に電話を切った。携帯電話を耳にあてたまま、港はこの後の及川の事を想像し、少しだけ不憫に思った。きっと今頃、友人の前でからかわれているのだろう。そんな事を考えて数秒、港は及川の欲しいものを聞き出していない事に気がついた。「しまった!」と思い再び携帯電話から及川に電話をかけようとした時、不意に隣から視線を向けられている事に気付いて顔を上げる。港の隣に座っている友人は、携帯を片手にニヤリと笑い、港を眺めていた。

「港、何ニヤニヤしてるの?」
「し、してない!」
「嘘ばっかり。愛しの及川君と何かいいことあったんでしょ?」

 言いなさいよ、などと肘でつつかれ、港は今更になって羞恥に襲われる。及川と電話をしている時の私は一体、どんな顔をしていたのだろう。友人からの質問攻めに合いながら、港は朝から頭を抱える羽目になった。



 それなりに悩みはしたが、及川の誕生日には、お財布をプレゼントする事にした。理由としては、そろそろ財布を買い替えようかな……と以前零していた及川の発言を偶然思い出したことに依る。そうして港は大学への通学路の途中にある、小さな工房に立ち寄っていた。革製品を主に取り扱うお店で、革の色味や品物のデザインなどのセンスが良いと評判の、隠れた名店であるらしい。通学途中にショーウィンドーからよく店内を眺めてはいたが、こうしてお店の中に入るのは初めてである。平日の昼間、大学生だからこそ自由に出歩ける時間帯に訪れたためか、客は港一人である。奥の会計スペースで何やら作業をしていたらしい店員が、のんびりと「いらっしゃい」と口にした。ここならば、誕生日プレゼントに最適なものが置いてあるだろう。そう思いながら、港はテーブルに置かれた財布を吟味する。折角だから長年使って貰いたいのだが、そうなるとそれなりに丈夫で良い財布を選ばなくてはいけない。そうなると比例して大きくなるのが値段である。この財布がいいんじゃないか……と目星をつけた財布に添えられた小さなタグには、それなりの金額が記されている。上京して一人暮らしをしている学生の港にとって、中々に大きいお値段である。どうしよう……などと思いながら、港はテーブルに置かれたその財布を眺める。落ち着いた色味の革の財布は、港が見ても洒落ているものだと一目で分かる代物である。使い勝手も良さそうだし、何より及川も喜んでくれそうだと思った。及川に渡すならこれだろう、と思うのだが、値段という壁が港の前に立ちはだかり、立ち往生していると店員さんに声をかけられた。「そのお財布にご興味が?」と不意に尋ねられ、慌てた拍子に港は馬鹿正直に「興味あるんですけどお金が……」と口を滑らせた。あまりの正直な発言に店員さんも思わず吹き出してしまい、港は羞恥で赤くなる。やはり慣れない事をするものではすることではない。怯んでしまった港を認めて、店員さんは「失礼しました」と謝罪した後、この財布にまつわる話を教えてくれた。
 何でも、この財布はこの工房の職人であり店長の、一番思い入れのある品らしい。ここでお店を開いた時に、一番最初に売れたのがこの財布で、その時の購入者も女性だったらしい。旦那さんにプレゼントするのだと言って買って帰った一ヶ月後、今度はその旦那さんがこの店を訪れ、別のデザインの財布を奥さんのプレゼントとして買って行ったのだとか。旦那さんは最初気付かなかったらしいが、奥さんが貰った財布のロゴを見て、二人して同じお店で財布を買い、送り合っていたことに気付いたらしい。それを夫婦揃って、後日報告に来てくれたのがとても嬉しかったのだと喋った辺りで、店員さんは自分が雑談に夢中になっていた事に気付いて、慌てて「すみません!」と再び謝りはじめた。しかし港と言えば、先程聞いた話が胸にじんわりと染み込み、素敵な話だと感動していた。夫婦の間の縁さえをたぐり寄せてしまう逸話のあるこの財布を、この時買おうと決意した。

「あの……今は買えないんですけど、今度また絶対に買いに来ます」

 港がおもむろにそう言うと、店員さんはキョトンとした後、穏やかに口元を緩めた。

「ありがうございます。お待ちしております」

 店員さんはニコリと笑って、店を出て行く港を見送ってくれた。そうして帰宅して早速、港は短期のアルバイトを探し始めた。及川の誕生日まではそんなに時間もないので、数日でそれなりに稼ぐ事のできるものを選び出す。あのお財布をプレゼントしよう。そう決めるが否や、行動に移す事の早さに自分自身でも驚いている。及川と付き合い始めて、自分もどこか変わったのだと自覚している。恋というものは凄いなぁ……などと気恥ずかしい事を考えてしまい、港は頭をブンブンと振った。
 そうして港は、及川の誕生日ギリギリまで短期のバイトを挟みながら、あの財布を買う為にお金を稼ぎはじめた。普段も生活費のためにラーメン屋で働いているため、大学とその合間を見つけて更に働くというのは大変ではあったが、目標のためだと思うと不思議と頑張る事ができた。通学途中にショーウィンドーをほぼ毎日眺めていたからか、店員さんが港を見かけると「いってらっしゃい」などと声をかけてくれるようになった。たまに立ち話をして、今バイトを頑張っていてあとどれくらいでお金が貯まるか、誕生日当日の夕飯は何にしようか悩んでいる、などと報告するくらいには随分と仲良くなった。そうして日は流れ、港はついに目標の金額を貯め、それを持ってお店に訪れた。しかし、お店に入って早々、港は自分がいつも眺めていた財布がテーブルに置かれていない事に気付いて愕然とする。まさか今日の今日になって売れてしまったのだろうか、と固まっていると、店の奥から店員さんがひょっこり顔を出した。

「ああ、いらっしゃい。待っていましたよ」

 そうして奥から出て来た店員さんは、ショップの袋を片手に港の元にやって来た。「こちらが例のお財布です」と言って差し出された袋を見て、港は安堵すると同時に慌てて財布を取り出した。最近の近況を報告していたから、店員さんも港が今日買い来るということは分かっていたのだろう。そうして会計を済ませ、港が財布の入った袋をおずおずと受け取った後、店員さんはまるでまじないでも唱えるように、港に激励の言葉をかける。

「貴女の想いがとても籠っているお財布ですから、大事にしてくださるはずですよ」

 にこりと笑って、店員さんは店の外まで見送りをしてくれた。

「貴女の今日までの頑張りが、恋人に伝わるように願っております」

 そう言って、店員さんは港を送り出してくれた。彼が実はこの店の店主であり、この財布の作者である事を港が知るのは、少し後の話である。



 財布を無事購入し、ほくほくとしながら帰宅した港は、早速夕飯の準備に取りかかる。練習試合で空腹であろう及川の事を思いながら、肉がメインとなる料理達を作る。及川はあの見た目で意外と食べるので、それなりにボリュームのある料理から副菜、ちょっとしたデザートなど、二人分の料理を同時進行で準備していく。テーブルの上にひとつずつ完成した料理を置いていくにつれ「ごちそう」という名の作品ができあがっていくようで、港は鼻歌でも歌いたくなった。自分でも中々の出来だと胸を張れるし、これは流石の及川も驚くだろう。きっとあの男の事だろうから、家に来て第一声は「夕飯失敗してない?」だとかそういうところだろう。そういう軽口すら封じられるのではないか、なんて一人でニヤニヤとしながら、フライパンに野菜を入れさっさと炒める。既に時刻は、約束の7時である。もうそろそろ帰ってくるだろうと待っていると、及川から電話がかかってきた。野菜を炒めながら、港は片手で携帯を手に取り応答する。もうすぐ家に着くのだろうか?とそわそわしながら電話に出た港の声は、少しだけ弾んでいた。

「もしもし、及川?」
『あ、有馬……』
「何、もう帰ってきたの?」
『いや……その、実は……』

 何やら歯切れの悪い及川に、港は加熱していたフライパンの火を消す。野菜を炒める音で上手く及川の声が聞こえないのかと思ったが、静かになった部屋の中でも、及川の声は小さく聞こえた。言い辛そうにしている及川の口調に、港はなんとなく、良く無い話なんだろうなと察した。

『俺、実はまだ遠征先にいてさ』
「えっ……」
『滅多にない交流試合だから、練習終わりに飲み会に行こうって話になっちゃって……抜けようにも、抜けられなくて』
「……」
『もしかしたら、今日中に帰って来れないかもしれない』

 ごめん。そう謝る及川の背後で、何やらざわざわとしている声が聞こえた。恐らく飲み会の場所からコソコソと電話をかけているのだろう。「及川君なにやってるのー?」という声も耳に入り、港は自身の目の前にあるフライパンの中身に視線を落とす。あともう少しで火が通りきる野菜達は、この後ハンバーグの隣に添えられる予定のものである。これができれば、料理はほぼ完成というところだった。

「……しょうがないよ。明日には帰って来れるんでしょ?」
『うん……』
「明日、元気があれば昼頃うちに来なよ。ご飯とっておくから」
『……うん、本当にごめん』

 及川の申し訳なさそうな言葉に、港は「気にしないで」とけらけらと笑いながら、握っていた箸を置いた。

「そうだ及川」
『何?』
「誕生日おめでとう」
『……ありがとう』

 未だ気落ちした様子の及川を励ますよに言ったものの、及川の調子は変わらなかった。まだ何かを言いたげにしていた及川ではあったが、電話をそろそろ切らないといけなくなったらしい。今日の埋め合わせは必ずするから。最後にそう言って、及川は控えめに電話をきった。声のしなくなった携帯を耳に当てたまま、数秒後港はため息をつく。折角準備した料理達は、今日の美味しい内に、本日の主役に食べてもらえないらしい。
 先程までウキウキとしながら準備をしていたというのに、港の気分はゆっくりと萎んでいく。楽しみにしてたのになぁ。そんな事を思いながら、港は再びフライパンの上に視線を落とし、その後テーブルに並べた二人分の料理に目を向ける。流石に今晩、一人でこれだけの量の夕飯を平らげられない。いくらかは分量を減らす事はできるが、それでも残りを冷蔵庫に仕舞いきれるだろうか。何となく気落ちした気持ちを誤摩化すように、港は今夜の自身の夕飯分を残し、料理にラップをかけて片付け始める。一日置いてしまうとあまり美味しくないかもしれないなぁ……と思いながら冷蔵庫に料理をなんとかしまっている間、港はふと高校時代のクラスメイトの話を思い出した。彼女の話は、確か今の港と同じような状況の中のものだった。クラスメイトは誕生日に、彼氏と一緒に遊園地でデートの約束をしていた。しかし、彼氏に急用ができたとかでデートが流れてしまい、クラスメイトは随分と怒って、それが原因で別れてしまった。港は彼氏の急用の内容を詳しく知らないものの、クラスメイトが何故あれ程までに怒ったのか理解ができず、何をそんなに怒っているのかと思っていた。今ならあのクラスメイトの気持ちが、少しだけ分かる。仕方の無い事で今日来れなくなってしまった及川の事は理解出来るが、成る程、案外寂しいものである。どうせ明日会えるというのに、何故こんな風に思うのだろうとぼんやり考えながら、港は一人で食卓についた。奮発して買った肉が美味しい。しかし、普段は一人で食事をとっているというのに、今日はなんだか妙に静かな気がした。
 夕飯を済ませ、お風呂に入り、特に見たいわけでもないテレビをつけたまま、港はベッドにゴロリと転がった。微妙に乾ききっていない髪をそのままに、港は及川にプレゼントするつもりであった財布のパッケージを袋から取り出す。グレーの手触りの良い箱に、クリーム色のリボンを巻かれたそれを眺めながら、港はフッと息を吐き出した。

「……お前が貰われるのは、明日になっちゃったよ」

 財布に話しかけている自分は、第三者から見たら相当に不審な人間だろう。今ばかりは一人暮らしをしていて良かったと思う。もしこの現場を家族にでも見られたら、兄あたりは「病院に行くか?」と真顔で言ってきそうである。でも、明日にはこれを及川に渡すことが出来る。喜んでくれたらいいなぁ。そんな事をぼんやりと考えている間に、瞼が重くなってきて、港はゆっくりと目を閉じる。幸い、明日は休みであるし、今日はこのまま寝てしまおう。昼頃には及川が来るだろうし、朝十時までには起きれば良いかと、目覚ましをセットせずに布団に潜り込む。なんとなく枕元にプレゼントの袋を置いて、港は部屋の明かりを消した。そうしてうつらうつらと船を漕ぎ、いよいよ意識がなくなりそうになった時に、不意に携帯電話が震えた。メッセージか何かだろうか、とは思ったが、睡魔に襲われ始めた港は億劫で、瞼を閉じたまま動かない。しかし、携帯が長い時間震えるものだから、その通知がメッセージではなく電話だという事に気付いた。眠気に襲われるがままに渋々携帯を手に取り、電話の相手を確認する。時刻は夜の十一時。夜遅い時間の上、電話等なかなか気軽にかけてくるような時間ではない。しかし、画面に表示されている「及川徹」という文字を目にした瞬間、港は慌ててベッドから飛び起きた。見間違いかと思ったが、何度も瞬きを繰り返しても、画面に表示されている名前は変わらない。慌てて電話に応答すると、何やら息を切らせているらしい及川の声が聞こえた。

『もしもし、有馬?起きてる?』
「えっ……うん、起きてる……」
『……もしかして寝てた?』

 港の覚醒しきれていない口調で、及川はすぐに察したらしい。

「寝ようとしてただけだから……大丈夫」
『……そう、それなら良かった。あのさ、実は俺今、お前の家の前にいるんだけど』
「……え?」

 家の前、と聞いて、港は慌ててベッドから飛び降り、夜遅いにも関わらず部屋を走って玄関に向かう。まさか、まさか、なんて思いながら疾走し、ドアを解錠しようとしてハッと自身の格好を顧みる。夕飯を作っていた時は、及川と会うということでそれなりにめかしこんでいたつもりだが、今の自分の格好はTシャツにスウェットパンツという出で立ちである。どこからどう見ても寝間着の格好で、流石に及川の前に出るのは躊躇われた。とりあえず何でもいいから着替えてこようと、港が部屋に引き返そうとしたタイミングで、ドアの向こう側からくしゃみをする音が聞こえた。ドアを一枚隔てた向こう側に、本当に及川がいるらしい。そう思うと、今の自分の格好などどうでも良くなり、港は衝動のままに勢い良くドアを開けた。

「……遅くなってごめん」

 はぁ、を息を整えながらそこに立っていたのは、正真正銘及川徹だった。普段着という格好ではあったが、肩にはスポーツバッグをひっかけており、試合の帰りだということは明白である。

「そんな、いいよ……というか、何でそんなに息上がってるの?あと、飲み会は?」
「飲み会は……途中で抜けられたんだ。先輩のおかげで」

 なんでも、以前港が及川に誕生日パーティの誘いを電話でした際、及川の傍で盗み聞きしていたメンバーの中に、バレー部の先輩がいたらしい。その先輩が飲み会の途中「そういえば及川今日誕生日デートじゃなかったっけ?」と思い出したかのように言い放った。それを耳にしたバレー部の顧問が、貴重な交流会ではあったものの、気を利かせて及川を早々に帰してくれたらしい。そうして急いで帰ってきたらしい及川は、こちらに戻って来てからタクシーに乗ってここに来た次第であるようだ。そして息が上がっているのは、タクシーから降りてここまで走って来たからであるらしい。

「連絡くれれば、準備とかしてたのに……」
「正直間に合うか分からなかったし、お前寝てるかもしれないし……ここに来てから、連絡するかどうか決めようと思ってたんだよ」

 やっと息が整ってきたらしい及川は、ふぅと息を吐きだしてから、可笑しそうに笑いはじめる。

「本当は、部屋の明かり消えてたら今日は帰ろうと思ってたんだけど……折角の誕生日だしね。有馬に祝って貰っておきたかったから電話したんだけどさ……」
「……何笑ってるの」
「お前そのパジャマ、どうしたの?」
「?」

 先程から妙にクスクスと笑っている及川に首を傾げると、及川はすっと腕を伸ばし、港の首の裏側にあるTシャツのタグを、ツイと引っ張った。

「裏表反対に着てない?それ」
「……あっ」

 及川が引っ張っているタグに手を触れると、本来服の内側にあるべきタグが外側に縫い付けられている事に気付いた。無地のTシャツだったからこそ気付かなかったのだろうが、それを及川に指摘されてしまった事で羞恥に染まる。「間抜けだなぁ」と言いながら及川は摘んでいたタグからゆっくりと手を離した。その際、お互いの手をかすめて、港は少しだけドキリとした。

「後で着替えるから……。というか、及川飲み会でご飯食べてきてるんだよね?」
「ちょっとだけね。……まぁ、お前の力作を食べられるくらいには、お腹は空いてるけど?」

 港がなんと言いたいのか、及川には分かっているようだった。得意げに腕を組み、小首を傾げて笑ってみせる及川に、港は目をゆっくりと見開く。今冷蔵庫に眠っている夕飯を、及川に食べてもらえると知って、嬉しいと思わないはずがない。実らないのかと思っていた事が、思わぬ形で叶えられそうな現実に、港は浮き足立つ。

「それじゃあ、これからご飯温め直すから、上がって行きなよ」
「そうさせてもらうよ」

 及川を家に招き入れ、港は慌ただしく夕飯の準備をはじめる。晩ご飯を食べるには随分と遅い時間ではあるが、今日は及川の誕生日だから特別である。冷えたスープを温めて、冷蔵庫からラップをかけた料理達を取り出し、すぐに食べられるものからテーブルに並べていく。いくらか温め直す料理以外を並べただけであるが、まるで数時間前の作品「ごちそう」が復活したようで、港の口元が少しだけ緩んだ。忙しく、しかし機嫌が良さそうに準備を整えていく港を眺めながら、及川はキッチンの手前で立ち止まった。

「これ……全部有馬が作ったの?」
「そうだよ」

 ハンバーグを電子レンジに入れ、フライパンを温めはじめた港の後方で、及川はテーブルに並べられた夕飯を眺める。並べられた二人分の夕飯は、品数も多ければ、手の込んだもの、珍しいデザートなど、バリエーション多く並んでいる。港は料理が普通にできるものの、あまり手間をかけない事を知っている及川は、ここで少し感動を覚える。自分の誕生日のために、ここまで準備してくれたのかと感慨深く思いながら、テーブルに近寄って並んだ品を覗く。よくもこんなに作ったものだと、テーブルに並ぶ副菜達に目を落とし、何故か真ん中に置かれている袋に入ったパンを手に取り確認すれば、案の定牛乳パンだった。いくら自身の好物と言えど、この料理達の中で牛乳パンを真ん中に置く港のセンスに、及川は緩やかに吹き出す。

「あっ、そうだ、及川!」

 及川がひっそりと笑っている事に気付かない港は、一度キッチンから離れて及川の方にやって来た。そうしてベッドの上に置いてあった紙袋を手に取り、それを及川に差し出す。

「はい、これ! 誕生日おめでとう!」
「ああ……ありがとう」

 事前に貰えるだろうとは分かっていただろうが、こうして改めてプレゼントを貰うと及川も嬉しいらしい。港の差し出した紙袋を丁寧に受け取り、及川は「開けてもいい?」とお伺いをたてる。それに頷いた港は、暫く及川が包装を開いていくのを眺めていたが、途中でお鍋を火にかけている事を思い出し、キッチンに飛んで戻って行く。それを見送った及川は、手の中にある肌触りの良い箱を撫でてから、蓋を開けた。中に入っていたのは、色味が上品な革の財布で、見るからに質の良いものだと分かる品である。そういえば、港の前で財布が欲しいと零したことがあったかもしれないと記憶を辿りながら、及川は財布のブランドを確認する。恐らく安くはないだろうこの革財布のブランドを確認したものの、財布に刻まれたロゴには及川に心当たりはない。一体、これをどこで買ってきたのだろうか……と思考を巡らせながら小銭を入れるポケットに指を入れると、中でカサリと紙の擦れる音がした。何だ? と疑問に思いながら、及川は中に入っていた小さな紙を取り出す。四つ折りにされた白い紙の中に、うっすらと文字のようなものが透けて見えて、及川を折り畳まれたそれを開いた。

「及川、ハンバーグ温まったみたいだから、運んでくれない?」

 フライパンに油を引き、再度温め直しながら、港はアラームの鳴った電子レンジを軽く開いた。中に入っているハンバーグを及川に運んで貰おうと思い、レンジを半開きにしているというのに、及川は食卓の前から微動だにしない。どうしたのだろう、とは思ったが、及川が財布を凝視している事に気付いて、港はなんだかむず痒くなる。プレゼントしたものを気に入ってくれただろうか…? とこっそりと伺うも、ここからでは及川の表情が良く伺えない。そうして気をとられている間に、フライパンの上で炒めているものに疎かになった事に気付いて、港は慌てて焼いていたものをひっくり返す。少し焦げてしまった焼き目を眺めながら「失敗したかも……」と、港は少し焦る。しかしまぁ、私がこれを食べればいい話か。思わぬ解決策を思いつき、機嫌を取り戻してフンフンと港が鼻歌を歌い始めたタイミングで、不意に視界に二本の腕が現れた。「え?」と港が言葉を漏らすと同時に、視界に映った腕は港の胸元で組まれ、そこに落ち着く。そうして、ギシリと音を立てて寄って来た人間に背後から抱きしめられ、港は一瞬息の仕方を忘れた。港の肩口に顔を埋めているのか、及川の息づかいを耳元で拾い、港は握った箸を取り落としそうになった。

「及川?」
「……」
「どうしたの……?」

 及川が何も喋らないものだから、港は身動きが取れないながらも、なんとか振り向く。しかし、振り向くとかなりの至近距離に及川の顔がある事が分かり、怖じけづいて再び正面に向き直った。そもそも、背後からこんな風に抱きしめられるのは初めてで、港の全神経は背中に集中しているのではないか? と思えるくらいに背後が温かい。目の前のフライパンは、未だにジュウジュウと音をたてている事を思い出し、港は慌てて箸をフライパンの中に入れる。しかし、港がフライパンの中身を炒めようとした瞬間、港の腕に沿うように及川の手が動き、コンロの火をカチリと止めた。そして港の手から箸まで奪い、それを傍にあった皿の上に置く。目の前のフライパンは、余熱で未だに焼かれている状態だというのに、及川はそんな事などどうでもいいらしい。

「あのさ」

 やっと口を開いたかと思えば、及川は一枚の紙切れを港の目の前でちらつかせた。何やら文字の書いてあるらしいそれを目の前で振られた港は、何の事だと疑問符を浮かべる。そんな港に、及川は紙切れを振る動作をやめ「中を読んでみろ」とばかりに港の手に握らせる。そうして素直に紙を受け取った港は、中に書いてある文字に視線を落とし、数秒してからガチリと固まる。手渡された紙には、小さな文字で「この財布が及川徹の手元に届くまで」の事が記されていた。港が毎日、こっそりと店のショーウィンドー越しにこの財布を眺めていたこと、これを買う為にバイト増やして頑張っていたこと、彼氏の誕生日に向けてはりきっていたこと等、港がこの財布を購入した店の店員に話した事が簡潔に、そして分かりやすくまとめられていた。ある意味暴露されたに近い事に、港はみるみると赤くなる。自分が及川の誕生日に気合いを入れていた事がバレてしまい、羞恥に襲われながらも、港は最後に添えられたメッセージに目を見開く。

『貴方の素敵な彼女と一緒に、このお財布も大切にしてあげてください』

 脳裏で、店員さんがニコリと笑う姿が思い浮かんだ。同時に、彼が最後に港にかけた言葉を思い出し、港は「やられた」と心の内で降参する。

「何お前、俺の事大好きなわけ?」
「……」
「何とか言いなよ」

 背後から港の肩越しに顔を出し、港の頬に及川の頬を寄せる程に密着してくるものだから、港は及川の腕の中でぎこちなく身じろぎする。何とか言いなよ、なんて聞くまでもないだろうとは思いつつ、恥ずかしいので港は黙ったままである。

「ねぇ質問に答えなよ。俺今日誕生日だよ」
「べ……別に言わなくても知ってるでしょ……」
「知ってるけど言って、命令、お願い」
「……」

 お願いと下手に頼んでいるのか、命令と高圧的に言っているのか、及川は意味の分からない事を口にする。しかし、今日が及川の誕生日という事もあるし……と悩んだ港は結局折れてしまい、及川の望むように、小さく口を開く。

「好きだよ」
「……うん」

 知ってる。囁くように耳元でそう言葉を零し、及川は港の胸元で組んでいた手を動かし、港の頬に手を添えて後ろ向かせる。そのまま食むように柔く唇を重ねて、キスを幾度も繰り返す。合間で港の体の向きを変えて、正面から抱き合うように互いの呼吸を奪う。はぁ、と熱い息を吐きながら夢中で唇を合わせている自分達を、果たして1年前の自分は想像できただろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、港は背中を滑る及川の手の感触に目を閉じる。最近、及川はキスの最中、港の体の感触を妙に確かめているような節がある。

「今度さ、たくさん我が儘言っていいよ」

 キスの余韻に浸りながら、及川は港と額同士を合わせながらそんな事を言う。突然なんだ? と首を傾げた港を認めて、及川はゆるりと目を伏せる。

「ずっと思ってたんだ……お前、あんまりそういうの言わないから」
「……そんな事を言われても」

 我が儘、というものがどういうものなのかは分からないが、港はわりと思った事は口にしているつもりである。案の定、良く分かっていないらしい港に気付いて、及川は「うーん」と唸る。

「例えば、あのアクセサリーが欲しいだとか……デートで行きたいところがあるとか……」
「……」
「言ってよ、俺、お前の彼氏だよ」

 お前の我が儘聞くくらい、どうってこないよ。そんな事を言いながら、及川は港の頭を自身の肩に引き寄せ、頬を寄せる。何故、今日誕生日で祝われている人間がそんなことを言うのかと、港は可笑しくて吹き出す。

「……何笑ってるの?」
「だって、今日は及川の誕生日なのに……」
「……感情の矛先が見つからないんだよ、察しろ馬鹿」

 馬鹿、などと暴言を吐きながら、及川はボソリと「ありがとう」と口にする。きっと喜んで貰えたのだと分かって港がホッと息をついたタイミングで、及川は更に「馬鹿」と暴言を重ねながら、港をぎゅっと抱きしめる。

「……及川、言ってる事とやってる事くい違ってない?」
「パジャマ裏表逆に着てる奴には言われたくない」
「ちょっと……今それ忘れてたんだから掘り返さないでよ」

振り切れた愛しさの行方

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