drive

「今週の日曜、どこかにでかけようか」
 普段よりも早い時間に帰宅した零さんの提案に、綾は目を瞬かせた。
「いいんですか?」
「あぁ。休みが取れたから、久しぶりにデートしよう」
 デート、という言葉を聞いて、綾はやや固まる。夫婦なのだから、一緒に出かける事をデートと言っても何も間違いではない。しかし、零さんに改めてそう言われると非常に照れ臭い。綾がそろりと視線を逸らした事に気付いて、夫は満足そうにクスクスと笑う。最近気付いたが、零さんはこうやって綾の初な反応を見て楽しんでいる節がある。一度「からかってませんか?」と言った事はあるが、それに対する零さんの返答は「反応が可愛くて、つい」だった。それすらからかいの言葉だった。本音だったのかもしれないが、それはそれで綾も苦しい、色んな意味で。
「よく一緒に出かけたところを回ろうか」
 記憶のない綾に、これまで一緒に出向いた所を教えてくれるらしい。これは綾も素直に嬉しくて、すぐさまカレンダーの日付を確認する。今週の日曜日まであと何日あるのだろう……と数えている綾を見て、零さんは「分かりやすいな」と笑った。

* * *


 休みを取れたと言っても、零さんの場合は急に出勤することになる場合も多い。だからこそ日曜日を迎えるまでの数日は気を抜けなかった。しかし当日の朝、綾より先に起きだして、パジャマ姿で歯磨きをしている零さんを洗面所で見かけ、ふわりと浮き上がる心地がした。口元が緩んでいる気がして少し引き締めてはみたが、歯磨き中の零さんに「おはよう」と笑われた。鑑越しに綾の姿が確認できたらしい。
 身支度を整え、お昼に一緒に食べようと二人でお弁当を作ったのだが、零さんは料理も上手かった。隠し味に予想外のものを仕込んだサンドイッチは特に絶品で、綾は正直驚いた。前々から思っていたが、この人は本当になんでも卒なくこなしてしまう。それが料理にすら及ぶのだから、彼の手広さは恐ろしい。下手をすれば自分より料理が上手いのでは……? と少しだけ焦りを感じ、綾は今後もう少し料理について頑張ろうと思った。
 零さんの運転する車には何度か乗せてもらったが、ドライブデートというものは初めてである。ただ車に乗るだけなのに、綾は少々浮かれ心地で助手席に乗り込んだ。今日は朝から昼頃まで、よくデートに行ったという公園に赴き、その後はドライブがてらいろいろな場所を周り、最後は初めて会ったところだという喫茶店に行く予定だ。楽しみだなぁ〜とお弁当の入った袋を大事に抱え込んでいると、隣の運転席に零さんが乗り込んだ。車にキーを差し込んでから「じゃあ行こうか」エンジンをかける手際を眺めながら、綾は前々から思っていたことを口にした。
「零さんって車好きなんですか?」
「え?」
 特に変な事を聞いたつもりは無かったが、零さんはキョトンとしながら車を発進させた。
「だってこの車、スポーツカーですよね。好きじゃなきゃ、あまり乗らないじゃないですか?」
「あぁ……まぁ、そうだな」
 苦笑いを浮かべながら、零さんはハンドルを軽く撫でた。
「大事に扱えてない事も多いんだが、この車は結構気に入ってる」
「やっぱり。長い間乗ってるんじゃないですか?」
「そうだな。……一緒にいろんな事を乗り越えてきた相棒みたいで、乗り換える気はあまり起きないんだ」
 苦笑いを浮かべている辺り何か思う事もあるらしいが、乗り換える気がないくらいなのだから、彼なりにこの車には思い入れがあるのだろう。それを微笑ましく思いつつ、綾は助手席に深く身を沈めた。座り心地が特別良いとは言えないかもしれないが、不思議と落ち着く。隣に車を運転する零さんがいることが大きいのだろうが、綾は改めて自分のいる世界の現実離れした日常を実感する。子供の頃、前の席に座る両親を後部座席で眺めていた自分は、今もし子供がいれば後ろから眺められる立場にいるのだ。なんとなく、ちらりと後ろを振り返ってみたが、そこに子供の姿はない。私達には子供はいないのだから当然であるが、いたとしても不思議ではない状況に、綾はそっと目を細める。本当に、居心地の良い夢だと心底思う。
「どうかした?」
「……いえ、なんでもないです」
「そのわりには楽しそうだな」
 綾が後ろにやや振り向いた事に気付いていたらしい。運転しながら、窓に肘をついてチラリと綾の方に視線を寄越した零さんが、そこにいる事すら奇跡に思える。彼と会って日はまだ浅いというのに、綾はこの居心地の良い時間を手放したくないと思い始めている。
「楽しいですよ、なんたってデートですから」
 そうして何気ない話をしながら、車は目的の場所に向かう。二人で良くデートに行ったらしい公園は、家からそれなりに離れた場所にある。綾も過去に何度か行った事があるが、広くて落ち着いたところである。
 大通りを抜け、そろそろ公園が近づいてきた頃。赤信号で止まっている車の後ろに付け、待っている間に目の前を女の人が歩いて行った。いくら周りの車が停車していると言っても、車道に出るのは危ないだろう。綾がそんなことをぼんやりと考えている間に、車道を歩いていた女性は右斜め前に止まっていた車の助手席に乗り込んだ。見るからに古めの車である。しかし、大事に扱われているのか車体はとても綺麗に見えた。
 そうこうする内、少し先に見える信号が青に変わった。この通りを左折すれば目的の公園である。車が動きだすのをそわそわと待っている綾をよそに、降谷は右斜め前の車に視線を向けていた。そちらの方をじっと見ている降谷に気付かない綾は、改めて腕の中のカバンの中を確認する。カバンの口からチラリと見えているお弁当の蓋を見て口元を緩めていると、前に止まっていた車が動きだした。そして零さんも車を動かしはじめたのだが、何を思ったのかウインカーを出し、右側に車線変更した。交差点には、目的の公園の名前が書かれた看板が左側に出ている。
「……零さん? 公園はこっちじゃ……」
「ごめん、ちょっと気になる事がある」
「え?」
 零さんはそう言うや否や、交差点をそのまま通り過ぎた。先程まで穏やかだった零さんが、今はただ真直ぐに前を見て緊張感を纏っている。何かがあったのだとすぐに分かったが、あまりの切り替わりの早さに綾はなかなか声をかけられない。そもそも、零さんの「気になること」なんて十中八九仕事関係の事だろう。聞いたところで話して貰える気もしない。
「綾、後ろに黒いカバンが置いてあるはずだ。取ってくれないか」
「は、はい……」
 急に雰囲気の変わった夫に動揺しつつも、綾は言われた通り後部座席の方に振り返り、目に付いた黒いカバンを手に取った。思いの外重みのあるそれを持ち上げ、何が入っているんだろうと疑問に思いつつ、カバンの中を開く。するとすぐさまその中に零さんが手を入れ、イヤホンのようなものを探り出した。一般的なイヤホンと違いしっかりと耳にかけるタイプのそれをつけ、零さんは携帯を取り出してどこかに電話をかけはじめた。
「……風見か」
 何やら風見という人に連絡をとりはじめた零さんは、片手間にカバンの中に入っていた帽子を被り、サングラスをかけた。そしてもう一つあった帽子を綾の方に差し出し、言葉無く「被れ」と促される。それを受け取った綾は、事情は良く分からないものの素直に帽子を被った。
「あぁ、そうしたいところなんだが……例の件でちょっとな」
 隣にいる綾の事を気にしてか、あえて伏せるような言葉選びで風見という人と連絡を取った後、零さんは一度通話を切った。さっさと耳につけていた電話用のヘッドセットを外し、サングラス越しに前を走る車を睨む夫を見上げながら、綾は恐る恐る口を開いた。
「前の車、どうかしました?」
「いや……あの車に乗っている人物が、探している人と似ていてね」
 似ている、と言いつつ零さんには確信があるのだろう。家にいる時と目つきが違う。斜め前を走る車に視線を向ける降谷につられ、綾もその車をまじまじと眺める。先程、車道に出て来た女の人が乗り込んだ古い車には、運転手と彼女の二人だけである。零さんが追っているという事は悪い人なのだろうが、後ろから見た感じはそんな風には感じられない。
「ごめん、応援が来るまであの車の後を追う」
 どうやら、デートは一時中断らしい。

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