over and over

 例の車の後をつけはじめて十分程が経過した。先程までの浮かれ気分は一転、黙っている夫を窺いながら、綾は膝の上のカバンをぎゅっと抱え込んでいた。とても話しかけられるような雰囲気ではない。車内の空気が重苦しく、綾は夫の様子を横目で確認しながら、窓の外の景色を眺めたりして無言の時間をやり過ごす。綾は今まさに、何かの事件の重要人物を追っているだろう車に乗っているのだ。まるで刑事ドラマの世界のようだ。……いや、零さんは警察官なのだから、ドラマのような世界ではなく、これは現実なのだ。その事実に気づき、ぐっと口元を引き結んで背筋を伸ばすと、この車の運転手が不意に吹き出した。
「……くくく」
 何故零さんが笑い出すのか。意味が分からず隣の男を見やると、現在半分仕事中の零さんは、先程纏っていた緊張感を緩め、綾の良く知る彼に戻った。
「……何で笑ってるんですか」
「いや、そんなに緊張しなくても」
「だってこれ……追跡? って言うやつですよね?」
「まぁね」
 深刻そうにしている綾の方がまるで馬鹿みたいに思える程、零さんはリラックスしたようにシートに背を預けた。
「だけど、ずっと気を張っていたら疲れるだろ?」
「そうですけど……いいんですか?」
「あるべき時に気を張ればいいさ、それに……」
 言いながら、零さんは綾の頭の上にポンと手を置いた。一瞬だけ、サングラスの隙間から彼と目が合った。
「君には俺がついているし、心配ない」
 ポンポンと何度か綾の頭に触れた手は、そのまま流れるように動き、掌を綾の方に向けて広げる。その所作に綾は首を傾げたが、すぐに意味が分かった。
「ところで綾、のど乾いたから何か頂戴」
「……もう」
 まるで緊張感の無い、飲み物の要求である。これには若干呆れた綾ではあったが、ずっと気を張っていては疲れるという零さんの言葉も最もである。本当は公園の芝生の上にレジャーシートを敷き、一緒にお弁当を食べながら飲む予定であったお茶を取り出し、紙コップにそれを注いで零さんに渡した。「ありがとう」と言ってそれを受け取り、零さんは運転の片手間にそれを喉に流し込んだ。
 例の車を追跡しはじめて一時間程が経過した。そろそろ小腹も空いてきたということで、二人はついに飲み物だけでなく、車内でサンドイッチを摘み始めていた。ひたすらに目的の車を、不自然に思われないように追う事に飽きがでてきた頃、前の車が動きを見せた。今まで真直ぐ走り続けていた車は、交差点を曲がり、峠の方に走り出した。そしてタイミングの悪い事に、信号の黄色が赤に変わる間際に角を曲がったものだから、綾達の乗る車は赤信号で一時停車せざるを得ない状況になってしまった。
「どうしよう、逃げられるかも……」
「いや、それは無いな。あの車はそんなに馬力も出ないから、あまり先には進まないだろうし。それに、ここを曲がるという事は向かう場所はひとつしかない」
 トントン、とハンドルを指で叩き、零さんは「むしろ丁度いい」と言った。何か企みでもあるのか、今零さんが浮かべている笑みは不敵である。何故あの車の行き先が分かるのだろう……と純粋に疑問に思った綾は、目的の車が曲がった角に立つ看板に気付いた。この辺りでは有名な峠の名前が書かれた看板をぼんやりと眺めていると、赤信号が青に変わり、零さんは車を発進させ、すぐに先程の車の後を追うように角を曲がった。幸いな事に、目的の車が曲がった後にこの道に入った車は無かった。峠の麓辺りにある駐車場を通り過ぎ、上り坂に差し掛かる。道はくねくねとしており、沿うように生えているたくさんの木々のせいで、先程の車がこの先にいるのかも分からない。零さんもこれはまずいと思ったのか、車の速度を徐々に上げて行く。そうして走る事数分、目的の車の後ろ姿を見つけ、零さんは口端を上げる。
「見つけた」
 更にスピードを上げ、みるみる前方を走る車と距離を詰める。しかし、こんなに急に近寄ったら不審に思われないだろうか。心配をしている綾をよそに、零さんは速度を上げたまま車を走らせ、目的の車の背後に張り付いた。こんなあからさまな事をしては、前の車に乗っている人に気付かれてしまうのでは……と冷や冷やしている間に、零さんはウインカーを出し、隣の対向車線に入った。「え?」と綾が声を漏らすと同時に、なんと零さんは前の車を追い越してしまった。
「えっ、追い抜いちゃっていいんですか!?」
「大丈夫だ」
 慌てている綾とは反対に、零さんは非常に落ち着いている。それどころか、ミラー越しに後ろの車を窺い、満足げに口端を上げている。まるで競争に勝った人のような表情の零さんに呆気にとられていると、零さんは簡単に理由を教えてくれた。
「あの車のドライバーは、車にこだわりを持っている。じゃなきゃこの時代にあの古い車に乗っていないし、あれは車を速く走らせる事が趣味の人間に人気のある車種だ。この峠はそういう車好きの人間が集まりやすい。そして、そんな人間なら少なからず、俺に追い抜かれた事を快く思わないはずだ」
 あの車を見ただけで、後について走っただけで、あの車のドライバーの趣向、性格までも分かるらしい。家からの出がけに「スポーツカーが好きなのか?」と尋ねた綾に対して「そんなかなり好きなわけではない」といった反応をしていた零さんではあったが、これだけ知識があるのならば「実は車の事好きですよね?」と言いたくなる程である。
「頂上で待っていればいい。おそらく、向こうから接触してくる」
 不敵に笑う零さんには、更に何か考えがあるらしい。確信をもつ彼の表情を確認してから、ミラー越しに後ろの様子を窺う。先程追い抜いた車はすでに随分と小さくなっており、本当に零さんの言った通りになるのだろうか……と少しだけ不安になった。

* * *


 先に頂上に辿り着いた二人は、一旦駐車場に車を止めた。外の空気を吸いながら例の車の到着を待っていると、わりとすぐに朝から追っていた車も駐車場に入ってきた。そして綾が先程抱いた不安を払いのけるように、なんとその車は零さんの車の後方にわざわざ停車した。全く持って零さんの言った通りになりそうなこの状況で驚いているのは綾だけで、零さんは「当然」と言ったように例の車に視線を向けた。
 例の車からは、ドライバーの男と、助手席に駆け込んだ女性が出て来た。間違いなく追っていた人達である。そうしてゴクリと綾が息を飲むと、その車のドライバーは気さくに零さんに声をかけてきた。
「あの、すみません。上りですれ違った方ですよね?」
「えぇ」
「いやぁ、いい車に乗っていらっしゃる。峠に来たら声をかけられるでしょう?」
「そうですね。しかし、お互い様では?」
「ははは、やっぱり分かりますか」
 どういう意味なのかは分からないが、零さんと例の車のドライバーは車に関する話で盛り上がっているようである。向こうから話しかけてくる、と言った零さんの推測が的中し、綾は素直に感心する。何で分かったんだろう……なんて考えながら、綾はチラリと零さんの車を見やった。あの運転手の言い方からすれば、この白いスポーツカーも、彼らが好む車種なのだろうか。
 そして例の車に視線を移す。やはり最近の車にしては少し小柄で、年期の入った古めのものである。しかし手入れは行き届いており、彼がこの車を大事にしている事が窺える。そうしてなんとなく車全体を眺めてから、綾はナンバープレートに視線を止めた。「8」のゾロメが並ぶそれをなんとなくじっと見ていると、ドライバーの男性が綾の方に顔を向けた。
「覚えやすいでしょう、僕のナンバー」
「えぇ」
「人気のある番号だから抽選だったんですけど、なんとかゲットできたんですよ」
 ははは、と笑いながら、ドライバーの男は愛車を丁寧に撫でた。
「8って数字は、一筆で書くとぐるぐると永遠に書き続けられるじゃないですか。だから、8という数字には『巡る』って意味合いもあるんだって、昔母が言っていましてね。僕もそういう意味を込めて、このナンバーにしたんです。この車と永遠に巡り会いたい、って意味をこめて」
「へぇ……」
「それに……実はこの車、昔盗まれたことあるんです。しかも買ったばかりの頃に。でも、ちゃんと戻ってきてくれたんです。きっと、このナンバーのお陰なんだろうな……なんて、僕は思ってるんですよ」
 本当にこの車の事が好きらしく、熱意に溢れ、饒舌な人だと思った。彼が零さんが「探している」と言った悪い人とはとても思えない。しかし、いい人そうな人程悪い人だ……とも良く言うし、素人の綾には良く分からない。彼の隣に寄り添うように立っている女性も、ニコニコとしてドライバーの男の話を聞いていた。
「すみません、長々と語ってしまって」
「いえ、素敵なお話ですね」
 8という数字は漢字で書くと末広がりになる事から、縁起がいいと言われている事は知っていたが、そういう意味合いもあるらしい。その話に素直に感心していると、彼は再び車についての別の話をはじめた。同じ車好きの仲間に出会えたと思って喜んでいるのか、零さんにひたすらに話題を振っている。そんなに詳しい訳でもないはずの零さんではあったが、彼の話題に普通についていくものだから驚いた。実家の車の車種くらいは分かるが、本当にそれだけの綾には、ちんぷんかんぷんである。相手のドライバーの男と一緒にいる女性もニコニコとしているが、一切話題の中には入って来ない。きっと彼女も、綾と同じような状況なのだろう。とりあえず零さんの隣で相槌をうちながら笑ってやり過ごし、綾はこの後一体どうするのかと様子を窺う。
 そうして話も一段落したところで、相手のドライバーの男がこちらの予定を尋ねてきた。どう答えるのだろうかと思ったが、零さんはサラリと、この後すぐに別の場所にドライブに行くのだと口にした。あっちの方に行くのだと言って零さんが指差した先、峠の下り道の方を見た瞬間、ドライバーの男は目をキラリと光らせた。「成る程、実は僕たちもこの後こっちに用があるんです」と口にした男は、流れるように腕組みをした。
「下り、一緒にどうです?」
 意味ありげに口端を上げたドライバーの言葉を聞き、キョトンとしてみせた零さんは数秒してからニコリと笑った。
「いいですよ」
 どういう意味なのだろう。首を傾げた綾ではあったが、笑顔の二人の間に火花が散った気がして、なんだか嫌な予感を察知した。サングラスの隙間から見えた零さんの目は、企みに満ちていた。

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