taboo word

 退院して一週間程が経過した。退院後、実家に戻るかどうか少しだけ悩んだが、最終的には零さんと一緒に住んでいる家に戻ることにした。表向きは「夫の事を早く思い出したいから」と理由をつけたが、正直に言えば零さんの事をもっと知りたいと思ったことが大きい。今自分が本当に8年後の世界にいるのか、長い夢を見ているだけなのかは分からないが、折角できた新しい家族との生活に惹かれた。しかし、彼との生活は思っていたものとは少し違った。
 某日。冷蔵庫の中に、偶然購入することができた有名なお店の人気プリンを入れた。わざわざ油性ペンでフタに『零さんへ』と書き、今日も遅くに帰ってくるだろう旦那に向けて、暗黙のメッセージを残す。食べて貰えたらいいなぁ……と願いをこめてベッドに入った翌日、冷蔵庫の中のプリンは姿を消し、キッチンのテーブルの上には「ありがとう、プリン美味しかった」と書かれたメモが残されていた。
 零さんは家にいる間の時間がかなり少ない。朝早くに出て行き、深夜遅くに戻ってくる。本当にただ風呂に入って寝るだけのようで、綾は忙しくしている彼が心配になると同時に、少しの寂しさを覚えた。零さんとまともに顔を合わせるのは朝くらいだ。自分にできることがあればと、綾は早くに起きて朝食を準備し、必要であればお弁当も作る。それくらいしかこの世界で自分ができることが無いし、零さんともゆっくり話ができないのだ。
 彼との結婚生活を心のどこかで期待していたからこそ、一人で家にいる時は自分は一体何をしているんだろうと考える。8年後の私は、一体何を思いながら生活していたのだろう。
 零さんから聞いた所によると、綾は数ヶ月程前に以前の勤め先を退職したらしい。今は所謂専業主婦で、家では自由にしているのだという。だから気にせず家でのんびりしていてくれ、と言われたものの、家事を済ませるとかなり時間を持て余した。零さんは働いているというのに、こんなに家でゴロゴロしていていいのかと罪悪感が湧く程である。無駄に掃除などを頑張ってみたものの、それでも時間は有り余る。パートでもはじめようかと思ったが、記憶喪失であると言われている以上、働きたいとも言い辛い。綾が8年前の世界から来た、という話を零さんは聞いてはくれたが、本心では信じていないだろうという事も分かっている。そもそも、何故仕事を辞めたのだろう。よく考えれば分かる事なのに、それを零さんに尋ねると「そろそろ子供欲しいな、って話をしてたから」と返された。あまりの羞恥に聞いた事を後悔した。
 そうして時間を持て余した綾に、昼頃散歩をするという趣味が増えた。散歩なんて普段する事のなかった綾ではあるが、8年後のこの世界では散歩というより、探検に近かった。ここでは、どこへ行っても新鮮である。八年前の自分が知っていた場所の変化を見て回る。それが毎日の楽しみになり、習慣になった。先日の人気店のプリンを偶然入手する事ができたのも、散歩のおかげである。
 そして今日もいつも通り散歩から帰宅すると、珍しく玄関に零さんの靴が並んでいた。時刻は夕方五時半過ぎ。この時間に帰ってきたのは、綾がここで生活するようになってから初めてのことである。定時帰宅できるくらいに今日の仕事が片付いたのだろうか。慌てて施錠し、家に上がった綾はリビングに向かった。昨日は夜に一度戻ってきて、二時間くらい休んだ後にまた出かけて行った夫である。流石に疲れているだろうし、寝室で寝ているかもしれない。そう思い至って足音を殺した綾は、リビングに足を踏み入れて驚いた。
 降谷は確かに帰ってきてはいたのだが、ベッドではなくソファの上で眠っていた。上着を適当にソファの背にひっかけている辺り、彼の疲労が窺える。いつもは帰ってきたらちゃんと上着を脱いでハンガーにかける彼にしては、珍しい光景だ。そっとソファを覗くと、降谷は両手の指を腹の上で組み、少しだけやつれた様子で眠っていた。着ているシャツもよれており、襟や胸元辺りにうっすら汚れもついている。
 きっと、警察の仕事で何かあったのだろう。仕事については詳しく話せないと言っていた降谷の言葉を思い出しながら、綾はソファに放られている上着を手に取った。今日も一時的に休みに戻っただけなのかもしれない。早くシャワーを浴びてベッドでゆっくり休んで貰いたいが、お疲れの夫を起こすのは気が引けた。
 とりあえず上着をハンガーにかけた後、綾は夕食の準備をはじめた。零さんがいつ帰ってきても大丈夫なように、冷蔵庫には温めてすぐにできる料理をストックしている。それらの準備を整えながら、綾はリビングのソファの方をチラリと窺う。綾が物音を立てていても、零さんは起きる気配がない。もしかして、今日はこのまま家でゆっくりできるのだろうか。なんとなくそう思い至り、綾は寝室へ向かい、ブランケットを手にとった。春先という事もあり温かくなってきた時期ではあるが、これがあれば温かいだろう。そう考えながらブランケットを腕に抱えたタイミングで、不意にドスンという物音が聞こえた。
 何の音だろう。反射的に振り向いた綾はリビングに戻り、床に転がっている夫の姿を認めて静止した。先程までソファの上で死んだように眠っていたはずの零さんが、どうやら寝返りをうったせいでフローリングの上に落ちたらしい。結構鈍い音が聞こえたような気がするが、零さんは床に転がったままピクリとも動かない。シン……と静まり返ったリビングで、見てはいけないものを見てしまった気がしはじめた綾は、腕に引っ掛けていたブランケットをぎゅっと抱えた。あんなに盛大に落ちたというのに、起きないという事は相当に疲れていたのだろうか。ゴクリと息を飲み、様子を窺っていると、床に転がっていた零さんはもぞりと動いた。のろのろとした動作で上半身を起こしながら、片手で顔を覆っている。落ちた時に顔を打ったのだろうか。心配になり、綾はブランケットを抱えたまま、フローリングの上に座り込んでいる夫の正面に膝をついた。
「大丈夫ですか、零さん」
「…………」
 それでも、うんともすんとも言わない。流石に心配になり、もう一度大丈夫かと声をかけようとした時、降谷の髪から少しだけ覗いている耳が、ほんのり赤くなっている事に気付いた。片手で顔を覆ったまま何も言わない夫、赤くなった耳、それだけで彼が何を思っているのか察しがついた。
 まさか。口元の筋肉が緩みそうになるのを必死に堪えながら、綾は目の前の男にもう一度話しかけた。
「零さん?」
「…………」
 ここでやっと、夫は少しだけ顔を上げ、顔を覆った手の指の隙間から綾を見た。やはりどこか疲労の色が窺えるが、それよりも別の感情の方が勝っているようだった。そんな夫と視線を合わせて数秒、綾は我慢出来ずに声を漏らしてしまった。
「………ふふ」
「……最悪だ」
「ご、ごめんなさい」
 ソファから転がり落ちてしまった事が流石に恥ずかしかったらしい。綾が思わず笑ってしまっている姿を確認し、夫は再び顔を手で多い項垂れた。
「かっこわる……」
「そんなことないですよ。とても……可愛いと思います」
「……そう言われてもあまり嬉しくないな」
 フォローを入れてみたが、笑いを含んだまま発言してしまったせいで、降谷は全く嬉しそうではない。むしろ不服そうである。羞恥に耐えているのか、再び無言になり、傍にあるソファに寄りかかっている。ソファから落ちてしまった事もだが、こうして気恥ずかしそうにしているところが、余計に母性本能をくすぐられる。本来の自分よりもずっと年上の男の人なのに、なんだか頭を撫でたい気分だ。流石に今はそんな度胸はないけれど、きっと零さんの髪はサラサラとして触り心地が良いのだろう。
「元気出してください零さん。ほら、夕飯にしましょう」
「……」
 パンと綾は手を叩き、話題を変えようと試みたが、零さんは未だに引きずっているようである。何をそんなに気にしているのだろう、男の人の考える事は良く分からない。うーん、と首を傾げつつ、今度は励ましの方法を変える事にした。
「零さん、そんな風にしてても可愛いだけですよ」
 ピクリ、と零さんの肩が震えた。やっと反応が貰えたと安堵したのも束の間、もの言いたげにしていた零さんが不意に両腕を伸ばした。「え」と綾が言葉を漏らす間もなく、零さんの両腕は綾の両肩に乗り緩く引き寄せられた。肩に乗る重みにドキリとしたのも束の間、顔と顔の距離を詰められ、綾は心の中でヒッと悲鳴を上げた。
「可愛い?」
 恐ろしい程の色気が、上から降ってきた。至近距離で見た零さんの表情は、なんというか少しだけ怒っているような感じがした。ムキになっている、という言葉も適切な気がするが、これを口にしたらもっと酷い事になりそうである。サラリとした長めの前髪から覗く目は穏やかなのに、口端だけは自信ありげに上を向いている。自分の武器を分かっていてやっているな、とは思いはしたが、それを真正面から受けてしまっては耐えられない。可愛いとかかっこいいとか、そういう問題ではない。
「……いえ」
「そうか、なら良かった」
 フローリングに膝をついていた綾は、あまりの迫力にぺたりと座り込んだ。そうして言葉を無くしている妻を放置し、夫は「今日の夕飯は何かな」とキッチンの方に歩いて行った。

back  next