tell you

 お見舞いに来てくれた両親達が帰って一時間程。再び病室のドアが開き、見慣れた男が入ってきた。仕事終わりだと聞いていたが、ラフな格好の零さんはぐるりと室内を見渡した。
「遅くなってごめん。お義父さん達はもう帰った?」
「はい、昼頃に……」
「そうか、挨拶したかったんだが……」
 間に合わなかったな、と残念そうにしながら、零さんはベッドの傍に置いてある椅子に腰掛けた。どうやら急いでここに来たらしく、椅子に座ってから一息ついたようだった。
「……調子はどう?」
「特に変わりなく元気です」
「そうか。……確かに、なんだか元気そうだ」
 零さんが来るのをそわそわと待っていたのが伝わったのか、目の前の彼はフッと笑った。自身の考えが筒抜けである事が少しだけ恥ずかしかったが、零さんが安堵しているようだったので、綾は羞恥を耐えた。
「今日、たくさん零さんの話を聞きましたよ」
「え? ……あぁ、そうか」
 家族から話を聞いたのだと察したらしい零さんは、家族からどんな話を聞いたのか尋ねてきた。そこで綾は、午前中に家族から聞いた彼の話をした。ほとんどが彼を褒め讃えるような内容である。ただ、いとこの香苗ちゃんとの修羅場については、流石に口にするのは控えた。
「大袈裟だな」
 綾の口から、あまりに自身が褒められるような話が出るものだから、流石に気恥ずかしいらしい。しかし、照れくさそうに笑う様にはどこか余裕があり、なんとなく彼が褒められ慣れている事が分かった。
「……俺からも、君に話しておきたい事があるんだ。ちょっと長いんだけど」
「はい、是非教えてください」
 家族が口を揃えて「素敵」だと評する降谷零という男は、どんな人なのだろう。本人の口から語られる話に期待で胸を膨らませていた。彼との出会いからこれまでの間、どんなドラマがあったのだろう。わくわくとしながら彼が話し出すのを待っていた刹那、彼は思わぬ前置きを口にした。
「ここから先の事は、決して他人に話さないでくれ」
「……え?」
 やや浮かれていた綾は、真面目な顔をして指を組んだ夫を目の前に虚をつかれた。何やら不穏な空気が漂い始めた病室で、綾は心の内で冷や汗を流す。なんだろう、この空気は。とても自分達の楽しい出会いの話をする雰囲気ではない。
「正直、今の君に話すべきか迷うところだ。だが、知らない方がまずい場合もある」
「……」
「あまり楽しい話ではないんだ。それでも、聞いてくれないか」
 真直ぐこちらを見る零さんと視線を合わせ、綾はコクリと息を飲んだ。冗談を言っているような雰囲気は無く、真剣に何かを話そうという意思が窺える。彼の話を聞くのは、それなりに覚悟が必要であるらしい。正直、一瞬どうしようかと迷った。こんな前置きをするなんて、きっと普通の事ではないのだろう。聞いてしまったら最後、もう後には引けない気がする。
 瞬間、脳裏に昨日の零さんの言葉が思い浮かんだ。ゆっくりでいいから自分の事を知って欲しい、もう一度好きになって欲しい。その言葉に心打たれたはつい先日である。これから彼が何を口にするのかは分からないが、きっと彼を信用してもいいのだろう。何せ、未来の自分が結婚した人なのだ。綾は、ぐっと腹を括った。
 綾が頷くと、零さんはゆっくりと口を開いた。まず、零さんが話してくれたのは、自身が警察官である事だった。それも特殊な部署に所属しており、命の危険も伴う仕事もあるのだと言う。更に、仕事柄自身の情報を外部に漏らさないようにしているため、普段は『安室透』という偽名を使っているらしい。だから第三者が居る場では「透」と呼んでほしいとの事だった。ちなみに、綾の両親と兄夫婦も、偽名の件は知っているらしい。お見舞いに来た時は、微塵もそんな事を話さなかったのに。もしかしたら、零さんから私に話すと言っていたのかもしれない。
「……驚いた?」
 次の話を口にしようとしかけた零さんは、呆気に取られている綾を見て苦笑いを浮かべた。しかし、驚くなというのが無理な話である。警察官であることはまだ受け止められるが、偽名を使わなければいけないとはどういう事なのだろう。それについての理由は先程零さんも言ってはいたが、個人の情報が漏れるとまずいような仕事とは何なのだろう。ただのお巡りさん、というわけがない。
 零さんが今いくつなのかは分からないが、若そうに見える。そんな彼が、死をも覚悟すべき仕事をこなしているようには、とても思えなかった。しかし、綾は昨日彼に追いかけられた時の事を思い出す。綾が裏道に逃げ込んだ後、零さんは直ぐさま車を留め、綾の後を追ってきた。その時の足の速さ、身のこなし、フェンスの上で視線を交えた時の静けさ、纏う空気は、まるでただ者ではなかった。そういうところが、彼がその仕事を受け持つ所以なのだろうか。それとも、そういう仕事をしているからなのだろうか。
 ぼんやりとそんな事を考えていると、不意に視界の端で何かが揺れた。反射的に顔を上げた綾は、自身の顔を覗き込んでいる零さんと至近距離で視線をかち合わせた。
「大丈夫か?」
 ぼーっとしている綾を心配して、やや身を乗り出すようにこちらに顔を寄せている零さんに気付き、綾はビクリと肩を震わせた。近い。零さんとの距離が、あまりにも。頭ひとつ分あるかないかくらいの至近距離である。彼にとってはどうという事でもないのかもしれないが、綾にとっては非常に心臓に悪い。何度も言うが、彼のような大人の男には免疫が無いのだ。零さんは真剣な話をしているというのに、彼の顔を見るとどうしても別の事に思考を奪われる。綺麗な顔をしているなぁ、髪の毛サラサラだなぁ……などと現実逃避に近い本音を心の内で漏らした辺りで、零さんは少しだけ目を細めた。
「……俺が怖い?」
「え? いや……怖いわけではなくて……その」
 私が挙動不審なせいで、どうやら怯えていると受け取ったらしい。表情は変わらないが、きっとあまり良い気はしないであろう零さんを視界に入れ、綾は必死に言い訳を考える。しかし、焦っている事もあり、全く妙案が思い浮かばない。こういう時に、もっと頭が良ければと心底思う。そうして馬鹿な私は、最終的に思った事を正直に口にすることしかできなかった。
「あの……零さん眩しいんで、あんまり近寄られると……」
「…………」
 自分でも何を言っているのだろうと思う。まさか綾がこんな色ボケた事を言うとは思わなかったのか、零さんは一瞬静止した。カァー……と赤くなり、顔ごと視線を逸らした綾ではあるが、なんとなく零さんがポカンとしている事が分かった。こんな真面目な話をしている時に、本当に何を言っているのか。
「……付き合い始めた頃も、そんな事言ってたな」
「えっ」
 わりと恥ずかしい事を口にした自覚があるのだが、零さんは特に動揺した様子も無く、自身が腰掛けている椅子を動かした。距離をとってくれるのかと思いホッとしたのもつかの間、零さんは先程より椅子をベッドに近づけ、再度座り直した。
「……なんで近寄って来るんですか?」
「ん? いや、眩しいんだろ?」
 早く慣れてもらわないと困るからな、と零さんはにっこりと笑った。そのあまりの爽やかさに呆気にとられている綾をよそに、彼は楽しげである。椅子に座り直し、優雅に足を組む所作の優雅さが、彼の余裕を体現しているようだった。
「……零さんって、意外と意地悪なんですね」
「まぁね、覚えておいてくれ」
 愉快そうに笑う彼の様子に、綾は面食らう。抗議したつもりだったのに、開き直られて返り討ちに合う。零さんと話した時間は短いが、なんとなく彼の方が何枚も上手なのだと思い知り、綾は何も言えなくなった。先程よりも綾に近いところに座る零さんは、まるで全てお見通しと言わんばかりの態度だ。何故……? と心の内で首を傾げたが、すぐに納得がいった。彼は、私の知らない八年後の私を知っている人だ。きっと私の事を知り尽くしているのだろう。だからこうして、綾がちょっとドキドキしている事すら筒抜けなのだ。
「私と零さんって、どこで知り合ったんですか?」
 彼に聞くべき事は他にもたくさんあるのは分かっている。しかし、こうして対面して話していると、どうしても気になってしまうのだ。現在の綾は良くも悪くも並の大学生である。この先も、平凡な生涯を歩むのだろうと思っていた。それが何故、どんな出来事があれば彼のような人と結婚にこぎつける事ができたのだろう。
「初めて会ったのは、ある喫茶店だよ。四年前、俺がバイトしていた店に君がやって来たんだ」
 「忘れもしないさ」と零さんは付け加え、わざと綾と距離を詰めるように顔を寄せた。それに動揺しまいと耐えている綾ではあったが、零さんはきっとそれすらお見通しだ。
「何せ初対面で君は、俺に凄まじい事を言い放ったからな」
「……何を言ったんですか、私」
「聞きたいか? 聞いたら聞いたで、相当恥ずかしいと思うが」
 それでも聞くか? と確認をとってくる零さんのニヤリとした表情に、綾は察する。それを聞いた後、頭を抱える自分の姿が容易に想像出来た。
「いえ、結構です」
「そうだな、もう少し落ち着いたら話そう」
「いえ、今後も結構です……!」
「ははは」
 こうしていると、本当に夫婦のようだ。 

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